増井浩俊の出身高校
増井浩俊 プロ野球選手
- 増井浩俊卒業高校
- 静岡高校 偏差値 静岡県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 144位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1984年6月26日生まれ
増井 浩俊(ますい ひろとし、1984年6月26日 - )は、静岡県焼津市出身の北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。
小学校四年生から地元焼津市の野球少年団で野球を始め、焼津市立和田中学校野球部ではノーヒットノーランを記録しこの経験がプロ野球選手を目指すきっかけとなる。増井と同じく焼津市出身で埼玉西武ライオンズの牧田和久とオリックス・バファローズの川端崇義とは同学年であり小学校時代から対戦経験がある。静岡県立静岡高等学校野球部在籍時の甲子園出場経験は無く卒業後駒澤大学へ進学。野球部では東都大学リーグ通算34試合登板し8勝12敗。その後東芝へ入社。野球部では絶対的エース磯村秀人の陰に隠れていたが、入社3年目の2009年に実力が開花、第38回IBAFワールドカップ日本代表にも選出、2009年のプロ野球ドラフト会議にて北海道日本ハムファイターズから5位で指名され入団。
2010年4月9日のソフトバンク戦でプロ初登板。4失点で敗戦投手となったが、それ以後も先発ローテーションの一員として起用され、4月27日のオリックス戦で7回1安打無失点と好投し、プロ初勝利を挙げた。また、5月13日の阪神戦ではプロ初安打と初打点を記録した。その後、右肩肩甲上神経炎により6月16日に出場選手登録を抹消され、8月後半に再登録されるも不振が続き9月前半に再度抹消された。11月8日には一般人女性と結婚。
2011年は開幕からセットアッパーとして起用され、前半戦は防御率一点台前半の好成績を記録。けがのため欠場した馬原孝浩(ソフトバンク)の補充選手としてオールスターゲーム初出場を果たし、第2戦で4番手として登板した。 その後もセットアッパーとしてシーズンを乗り切り、リーグ3位の34HP、防御率も1点台と飛躍の年となった。また、背番号も43から同年限りで退団した林昌範(現・DeNA)が着用していた19に変更された。
2012年もセットアッパーとして起用されたが、5月2日に抑えの武田久が右膝の故障により戦線を離脱したため、その間は抑えを担うこととなり、抑えとして初登板した5月6日に初セーブをあげた。武田の復帰後は再びセットアッパーに戻り、6月・9月に疲労の蓄積で不調に陥りながらも、最終盤には持ち直し、共にパ・リーグ新記録となる45ホールド・50ホールドポイントを挙げ最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。
2013年は武田久の離脱により抑えを任されたが、4月後半からセットアッパーに復帰した。しかし6月5日の巨人戦で小笠原道大に2年振りの本塁打となるサヨナラ3ランを打たれ、7月には2試合連続で救援失敗するなど不安定な投球が続き、宮西尚生やルーキーの河野秀数にセットアッパーの座を譲ることもあった。最終的に3年連続の50試合登板、そして史上最速(192試合)での100ホールドを達成したものの、シーズン終盤に持ち直したとはいえ防御率、ホールド数共に前年に比べて数字を大幅に落とした。
2014年も開幕早々に武田久が離脱したことで抑えに回った。序盤はリードを守りきれない場面が目立ち、6月には4試合連続で失点するなど投球が安定せず、一時は新外国人のマイケル・クロッタが守護神を務めていた。後半戦は25試合でわずか2失点と精彩を取り戻し、自己最多となる23セーブを記録した。8月16日の西武戦では、野手を使い切ったことから延長11回に4年振りに打席に立つ場面も見られた(結果はセカンドゴロ)。
2015年7月16日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出された事が発表された。9月10日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出された事が発表された。10月9日に、最終ロースター28名に選出された事が発表された。
オーバースローから平均球速約149km/h、最速155km/hのストレートと、落差の大きいフォークボールを軸にスライダーを操り、稀にカーブも投げる。
2010年には60回0/3で35与四死球を記録した制球難が課題であったが、セットアッパー転向後は改善傾向にある。
マグロで有名な焼津出身なので、練習用のグラブにはマグロのマークが刺繍されている。
高校の同級生に女優の原田夏希がいる。
増井自身の甲子園出場は無いが、弟二人が静岡高(2003年)と静岡商(2006年)で出場経験がある。
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