坂本博之の出身高校
坂本博之 スポーツ選手
- 坂本博之卒業高校
- 小松原高校 偏差値 埼玉県高校偏差値ランキング
- スポーツ選手ランキング
- 2141位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1970年12月30日生まれ
坂本 博之(さかもと ひろゆき、1970年12月30日 - )は、日本の元プロボクサー。福岡県田川市出身[文献 1]。
パワーのあるパンチで、「平成のKOキング」「和製デュラン」とも呼ばれた。
日本ならびに東洋太平洋ライト級王座を獲得。
世界ランキングは最高でWBCライト級1位。
幼少時に両親が離婚し、親類に預けられたがそこでの生活は極貧を極め、弟と一緒にザリガニを捕まえ食したこともあると語っている。
その後預けられた福岡市東区の養護施設『和白青松園』のテレビでボクシングの試合を見たことがきっかけで、プロボクサーを志すようになる。
クラシック音楽が好きで、現役時代は自身の入場曲にもクラシック音楽を使っていた。
主な入場曲はドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」第4楽章。
小松原高等学校卒業と同時に上京、名伯楽・勝又行雄にその才能を認められ、勝又ジム認可後同ジム所属となり、OPBF王座獲得まで同ジムで活躍したが、その後角海老宝石ジムに移籍した。
1991年12月14日、プロデビュー戦で初回KO勝ち。
1992年12月18日に東日本ライト級新人王、翌1993年2月20日には、全日本同級新人王に輝き、全日本新人王決定戦MVPにも輝いた。
同年12月13日、12戦全勝(10KO)の戦績を引っ提げ、日本王座初挑戦。
日本ライト級王者リック吉村(石川ジム/米国出身)に挑み、9回TKO勝ち。
王座獲得に成功し、翌1994年2月5日には初防衛に成功。
同年8月6日、1階級上の日本ジュニアウェルター級(現・スーパーライト級)王者桑田弘(進光ジム)とノンタイトル戦を戦い、10回TKO勝ち。
この試合後、日本ライト級王座を返上。
1995年5月6日、元WBA世界ジュニアウェルター級王者ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)とノンタイトル戦を戦うも、10回判定負け。
プロ初黒星を喫した。
1996年3月3日、OPBF東洋太平洋ライト級王座決定戦に出場。
ロジャー・ボリロス(フィリピン)を11回TKOに降し、王座獲得に成功。
その後、2度防衛成功後、王座返上。
1997年7月26日、29戦目で世界初挑戦。
WBC世界ライト級王者スティーブ・ジョンストン(米国)に挑んだが、12回判定で敗れ王座獲得ならず[文献 2]。
1998年8月23日、世界再挑戦。
6月にジョンストンを破りWBC世界ライト級王座を獲得したセサール・バサン(メキシコ)に挑むが、またしても12回判定負けで王座獲得ならず[文献 3]。
2000年3月12日、3度目の世界挑戦。
WBA世界ライト級王者ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)に挑む。
初回、王者から2度のダウンを奪うも、2回に王者の左アッパーを受け右目を負傷。
迎えた5回、傷がさらに深くなったところで4度目のドクターチェックが入り、ここで試合ストップ。
TKO負けとなり、またしても王座獲得ならず[文献 4]。
同年10月11日、4度目の世界王座挑戦。
6月にセラノを降して、WBA世界ライト級王座を獲得、日本人4人目の世界2階級制覇を達成した畑山隆則(横浜光ジム)に挑む。
初回から一進一退の激しい攻防戦を繰り広げるが、迎えた10回、王者の連打を浴びたところでダウン。
セコンドからタオルが投入され、4度目の挑戦も失敗に終わった[文献 5]。
なお、この試合は後に同年の年間最高試合に選ばれた。
2001年は1試合も行わず。
2002年10月5日、東洋太平洋2階級制覇を目指し、OPBF東洋太平洋スーパーライト級王者佐竹政一に挑戦するも、最終12回KO負けを喫し、王座獲得ならず。
その後、首・腰痛の治療を行うために長期間の休養。
2005年5月12日、佐竹戦以来2年7か月ぶりの復帰戦を行うも、5回TKO負け。
その後は2006年に2試合を行い、いずれもKO勝ち。
持病の腰痛(腰椎椎間板ヘルニア)と年齢的な衰えを感じる中、「もう一度日本チャンピオンになったら引退しよう」と決意。
しかし、復帰後日のスパーリングの後、「若手相手に体力負けしているのを感じた。もう自分には、畑山戦の時のような常に前に出るボクシングはできないし、日本タイトルに挑戦するだけの練習をする体力も残っていない。」と会長に告げ、引退を決意した(参考:ボクシング・マガジン2006年2月号)。
2007年1月6日、プロボクサーとして最後となる、タイライト級1位カノーンスック・シットジャープライとの試合に臨む。
結果は7回終了負傷判定で引き分け。
同年7月28日、生まれ故郷・福岡の福岡国際ホールにて引退式が行われた。
その後、11月17日には後楽園ホールで引退記念興行が行われた。
2010年8月8日、東京都荒川区にSRSボクシングジムを開いた。
マネージャーは第28代日本スーパーバンタム級王者で元同門の中島吉謙が務めている。
ボクシングスタイルは、右のファイター。
普段の優しい性格とは裏腹に、孤高のインファイターと呼ばれていた通り、ピーカープースタイルで相手に突進し、相手のパンチを恐れず、ひたすら前に突っ込んでいき、パワーを活かした破壊力のあるパンチを相手に喰らわせ、壮絶な打ち合いを行うという、まさに、勇猛果敢なインファイトを展開する。
これは、「子供達(特に、自分と同じ様に児童養護施設に預けられたり、不遇な経験をした子供達)に、自分が戦う姿を見せて、生きる希望、勇気を与えたい。」という、坂本自身の願いがあるからである。
得意技は、左フックと右クロスカウンター。
特に、左フックは、坂本の最大の武器かつ代名詞ともいえる必殺技で、普通のものと違い、腰の回転を利かせて、相手をなぎ倒す様に放つため、鉈フックともいわれた。
誕生のきっかけは、本来、坂本は右利きなのだが、右拳を骨折した事が原因で、左のパンチを徹底的に練習していたため。
その破壊力を物語るのが、リック吉村戦である。
見事に勝利した坂本だが、リックは試合後、病院へ直行。
坂本の左フックを喰らった右肩が骨折しており、手術の際、骨の欠片が20~30個出て来たという。
攻撃的な戦法とインファイトによる相手のパンチを避けるのが難しくなっている事の影に隠れているが、守備力も高い。
元々の打たれ強さにピーカープースタイルで構えるガードを加え、さらに、相手のパンチを喰らっても、芯を外す技術を持ち合わせている。
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