呉智英の出身高校
呉智英 コメンテーター
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呉 智英(くれ ともふさ、またはご・ちえい、1946年9月19日 - )は、日本の評論家、漫画評論家。愛知県西枇杷島町(現・清須市)出身。京都精華大学マンガ学部客員教授、日本マンガ学会会長。「儒者」「封建主義者」を自称し、民主主義信奉者や人権思想を批判している。大学で論語の講座を持っていたこともある。
本名は新崎 智(しんざき さとし)。ペンネームは「水滸伝」の百八星の中での随一のインテリである軍師役「呉用」に由来する。
愛知県西枇杷島町(現・清須市)生まれ。東海高校を経て1965年に早稲田大学法学部に入学、1971年に卒業。高校時代に日本教職員組合の教師から共産主義の教えを受け、学生運動では日本共産党にも既存の新左翼の組織にも所属せず、無党派の活動家として全共闘運動に参加。大衆迎合主義や日本共産党の党派性を批判した。早稲田大学2年生になったばかりの時、学費値上げなどを巡るストライキを防衛しようと、スト破りをしようとする運動部の学生と乱闘して逮捕、起訴。2年半にわたる公判の後、1969年、4年生の終わりの頃に執行猶予つきの有罪判決を受けたが、大学からは何の処分も受けなかった。その理由について呉智英は
と推測している。当時、共に早稲田闘争を戦った宮崎学によると、呉智英はある総会で執行部の運動方針に猛然と反対し、「学生大衆の中から『おまんこがしたい』という要求が澎湃として湧き上がったとしたら、執行部の諸君は大学当局にかけあって、我々におまんこ実現を勝ち取ってくれるというのか。ばかげた無原則的なことをいうんじゃないよ」と演説したことがあるという。
友人の始めたコンピュータ会社などの勤務を経て(一時、夜勤の守衛もやっていた)、文筆業に入る。
1981年に初の単著となる『封建主義、その論理と情熱』(改題で『封建主義者かく語りき』)を情報センター出版局から刊行。これは当時一般に信じられていた民主主義や人権論の矛盾を追究し、脱却する道として封建主義(主に、孔子の唱えた儒教)を提唱する内容だった。
上記の思想から、長年に渡って主に、「進歩主義的」な左翼勢力の批判(「朝日新聞」や、新左翼がさらに思想的に袋小路に入った『珍左翼』(呉の命名)など)を主に行ってきた。だが、近年の左翼思想の退潮から、右翼側の「産経新聞」の批判的研究などをはじめ、「産経新聞」にしばしばトンデモ系のオカルト記事が掲載されることなどを、批判している。(俗流オカルト思想には一貫して批判的である)
また、呉ら全共闘世代の新左翼の間で、カリスマ的存在であった吉本隆明についても初期から批判的で、吉本の重要な思想的基盤である「大衆の原像」の抽象性を批判。また、吉本が花田清輝ら左翼陣営内の論争で無敵だったのは、彼が「神学者のふりをした神学者」(マルクス主義を信じない左翼)であったせいだと、している。ただし、吉本の「転向論」については評価している。
漫画にも造詣が深く、石子順造、山根貞男、梶井純、権藤晋が、1967年に創刊していた、漫画評論同人誌「漫画主義」に、つげ義春、白土三平、ジョージ秋山についての評論を発表。また、水木しげるの資料整理のアルバイトを1970年から10年ほどしていた。1973年に『ガロ』誌上で「劇画列仙傳」の連載を開始。1986年には漫画研究の集大成として情報センター出版局から『現代マンガの全体像』を刊行した。現在は、出版情報誌『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー)に「マンガ狂につける薬」を連載中。
論語や聖書を愛読し、これらから近代批判の思想を読み取っている。1988年に都内で論語を講義する公開講座「以費塾」を、呉に親炙する評論家浅羽通明の手配で開始。月2回、第2、4金曜日に講義がおこなわれ(但し、8月は大学生の夏休みを考慮し休講)、23回前後で論語を通読する内容。2005年9月9日より始まった第14期が最終講義となり、2006年12月22日、終了した。2003年に刊行した『現代人の論語』(文藝春秋)にて、その講義内容の一端を読むことができる。また、2008年から2年間、現在の居住地に近い名古屋で「月イチ論語塾」(主催:なごや博学本舗)を行った。
思想・政治・文化など様々な分野へユニークな提言を続け、自身も再三重要性を訴える通りの教養人・知識人であるが、その文章は一貫してユーモア溢れるくだけた文体を遵守しており(ちょうど政治的視座において対照的な左翼言説とは正反対のスタンス)、明確な論旨と相俟ってその表現は非常に平易である。
西池袋に長く住んだが、1999年、父親の介護のため、愛知県に転居した。その父親は、2006年1月に亡くなったが、現在も同所に居住中である。
呉の民主主義批判の影響は大きく、40代の評論家に最も尊敬されている知識人とされ、その思想的影響を受けたものとして浅羽通明、大月隆寛、宮崎哲弥などがいる。小谷野敦も呉を尊敬していると公言している。
漫画評論家として主に1960年代から1980年代の少年・青年漫画を取り上げてきたが、漫画が多様化してきた1990年代以降の作品に関しては、興味を失い積極的に取り上げていないと『ダ・カーポ』誌上で語った。特に人気作品である「クレヨンしんちゃん」に関してはまったく理解不能として評価しておらず、「なんであんな作品に人気があるのかさっぱり判らない」、「あの作品に人気がある事にイライラさせられている」と発言している。少女マンガは苦手のようで、あまり取り上げない。
そういった状況もあり、夏目房之介とのアンソロジー、『夏目&呉の復活!大人まんが』では、現在では「忘れられた分野」である「大人まんが」から優れた作品を集めて、再評価をうながした。
また、みつはしちかこ『小さな恋のものがたり』など、過去の凡庸な作品であっても「長期間大衆に支持されたモノ」は、その職人性を認めて評価することも多くなっている。
支那という呼称を使っていけない理由はないと長年主張しており、これを自主規制するマスコミへの抵抗の意を込めて、常に支那と書いている。そのために多くのマスコミへの寄稿を困難にしているが、主張を貫いている。近年は毎日新聞紙上で支那を使用したが、抗議は来なかったとのことである。また、「支那を『支那』と呼んで何が差別なのか」と主張しているが、その論理としては、1946年6月に中華民国が東京に代表団を派遣し、日本の外務省に対して「この時より『支那』の名称を使用することを禁ずる」と通告したことを挙げ、「真っ先に文句を言うべき相手は、アヘン戦争を仕掛けて香港を奪ったイギリスや、マカオを植民地にしたポルトガルじゃないですか。それらの国が支那のことを『チャイナ』とか『シーナ』と呼んでいることに対しては一つも文句を言わないで日本にだけ言うのは、明らかに日本人に対する差別でしょう」としている。
「すべからく」は元来、漢文を読み下した言葉で「すべからく~すべし」という使用の仕方をすべきだが、学生運動の演説などで「帝国主義勢力は~、すべからく~(打倒すべき)」などと、長々とした文章で使われるケースが多かったせいか、「『すべて』と同じ意味の言葉」として使われるようになった。そのことに気がついた呉は、「すべからくの誤用」をする著述家たちを、「単なる誤りではなく、自分の文章を高尚なものに見せようとした『卑しい考え』による誤用だ」と批判していた。
差別語狩り、言葉狩りには、活動当初から批判していて、「シェークスピアの『ベニスの商人』などの文学的に有名な作品も差別的である。これらをどうするのか」と主張。また、歴史的な記述などで、現在の「いいかえ語」を過去にさかのぼって適用し、過去の歴史的な記述や、過去の作品まで「いいかえ語」に置き換える風潮を、「歴史の改竄」と激しく批判している。
「第二次大戦で日本が侵略者だと批判されるのは仕方ないが、豊臣秀吉の朝鮮出兵まで批判されるのはおかしい。それならば、元寇時に元軍の大半を占めていた朝鮮兵に日本は侵略されている。」とし、「戦争/植民地支配は、発生してから100年までは謝るようにする」といった議論をすべきだと主張している。
死刑制度は、人民が本来持っていた自然権であるところの「復讐権」を国家が奪っているとし、仇討ち制度の復活を唱えている。
以前、「差別のない明るい都政を」という某・東京都知事候補のキャッチ・フレーズに腹を立て、自分なら「差別もある明るい都政を」を唱えて立候補する、と宣言したこともある。
また、2006年11月26日付の産経新聞で、いじめ問題について「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ、少年法が君たちを守ってくれるから」と発言し、物議を醸した。この発言は「死刑を廃止して仇討ちの復活を」という、呉のデビュー以来一貫した主張に基づくものといえる。
「共産主義と民主主義・人権思想は同根のものである」としており、その論理としては、「フランス革命、そしてそれに先立つ啓蒙思想に端を発」する、「具体的な『解放』の積み重ねがやがて全面的な『人間性の解放』となって歴史の彼方に実現する」という考え、「つまり『人間性解放の神話』」が、「東回りでロシヤに入って共産主義となり、西回りでアメリカに入って人権論となったわけです」としている。
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