古川ロッパの出身高校
古川ロッパ タレント
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- 男性
古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ 、古川 緑波とも、1903年(明治36年)8月13日 - 1961年(昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。編集者、エッセイストとしても活動した。
本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。
古川ロッパは元東京帝国大学総長加藤弘之男爵の長男にあたる加藤照麿男爵の六男として東京市麹町区に生まれた。生後間もなく嫡男以外は養子に出すという家訓により、義理の叔父(父の妹の婿)で満鉄役員の古川武太郎(元陸軍中将の古川宣誉の長男)の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校三年生の頃に自らつけた筆名で、尊敬する文学者巌谷小波に因む。始め読み方は「リョクハ」だった。芸能界入り後は舞台活動では「ロッパ」、文筆活動では「緑波」と使い分けた。)
1911年、福岡県門司に転居し、1916年旧制小倉中学校に入学。1917年東京に戻り旧制早稲田中学校に転校。在学中1918年に映画雑誌『映画世界』を発行、映画評論を執筆して早熟ぶりを発揮する。同時にキネマ旬報などの映画雑誌に緑波の名で投稿を始め、1921年早稲田第一高等学院に進学、そこでキネマ旬報編集同人となる。さらに1922年には小笠原プロ・小笠原明峰監督『愛の導き』で映画初出演。その実績を買われて早稲田大学文学部英文科在学中に菊池寛に招かれ、文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社した。
1925年早稲田大学中退。以降は文筆活動に専念する。雑誌編集の傍ら、宴会での余興芸の延長上で、1926年に親交のあった活動弁士徳川夢声らとナヤマシ会を結成し演芸活動を開始。「声色」と呼ばれていた声の真似芸に「声帯模写」という仰々しい新名称を与え、モダンな芸風が仲間内で好評を博した。
1930年、菊池の後援で『映画時代』の独力での経営に乗り出すが失敗に終わり多額の負債を負う。雑誌休刊後は東京日日新聞の嘱託として映画・レビューを書いたり、映画関係の書物の執筆、雑誌『漫談』の編集などを行ったり、1931年には五所平之助『若き日の感激』、田中栄三『浪子』などの映画出演を行う。
その後、素人ながら芸達者なところを買われ、菊池寛や小林一三の勧めで喜劇役者に転向。デビューは1932年1月、兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』だった。このときはロッパのわがままに対する小林の好意で、フィナーレは花吹雪の中大階段を降りながら歌う演出、千両役者にちなんで千円祝儀をもらうという破格の待遇をしてもらいながら、肝心の芝居のほうは本人も恥じ入るほどに散々な出来だった。
そのような失敗を乗り越え、1933年には浅草で夢声・大辻司郎・三益愛子・山野一郎らと劇団・笑の王国を旗揚げした。内容は、ロッパの人脈を生かしてナヤマシ会関係者や他劇団、映画関係などの寄せ集めで、アチャラカと呼ばれる軽いナンセンス喜劇中心だった。「前受けばかり狙ったお粗末至極」 なものばかりで、スケジュールは、一日2回から多い時は3回半の公演、約二週間ごとに出し物が変わるというハードなもので、ロッパにとっても「思いもかけないことだ!」 と述べているように良家育ちが庶民の街に違和感を覚えるといった苦戦を強いられるが、後に提携を結ぶ脚本家菊田一夫と邂逅。自作の『凸凹放送局』、『われらが忠臣蔵』などの成功で喜劇俳優として成長する。彼自身チャップリンと曾我廼家五郎を崇拝しており、アチャラカ芝居への理解の深さは、曾我廼家喜劇への造詣から来たもので、喜劇への第一歩も菊池からの「モダン曾我廼家になりたまえ」の一言だった。
「エノケン」のニックネームで同時期に活躍した喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を争った。恰幅の良い体格にロイド眼鏡の丸顔がトレードマークのロッパは、華族出身のインテリらしい、品のある知的な芸風が持ち味で、小柄で庶民的かつ軽業芸も得意なエノケンとは違い、激しい動きは得意でなかったが、軽妙洒脱な語り口に加えて、生来の鷹揚さと朗々たる美声から来るいかにもお殿様らしい貫禄が大衆に好まれた。戦後、安藤鶴夫がロッパの芸を「口千両」と評しつつも「下半身から足にかけては寧ろ甚だ大根役者」と酷評したことに「この位ピッタリ言ひ当てられては一言もない」と述べており、自身も芸の長短を心得ていた。
1931年ごろから数多くのレコードを残しているが、中でも軽妙なコミックソングを得意とした。代表作の『ネクタイ屋の娘』は作詞が西條八十、作曲が古賀政男という、歌謡曲の大御所2人による作品である。他にはナンセンスな『嘘クラブ』、小唄勝太郎と歌った『東京ちょんきな』などの民謡風、『明るい日曜日』などのパロデイ物、シリアスな『柄じゃないけど』(渡辺はま子と共演)、アニメの主題歌『潜水艦の台所』などがある。舞台ではティペラリーや尻取り歌などを得意としたが、わざと音程を外して歌う芸もあった。また明治製菓の協賛でコマーシャルソング『僕は天下の人気者』も録音している。
舞台では歌や漫談、声帯模写と幅広い芸を披露したが、特に十八番の声帯模写の巧みさは超一流だった。1932年8月、ラジオの生放送に出演予定の徳川夢声が酒と睡眠薬の服用し過ぎで倒れて出演できなくなった際、ロッパが代役として夢声の名で出演し、40分間を夢声の声色で通して、誰もロッパと気付かなかったという伝説的な逸話を残した。自宅でラジオを聴いた夢声の妻は、夫が隣室でいびきをかいているのにラジオから夢声の生放送での喋りが流れているのが信じられなかった とか、ロッパの声色のテープを聞いた夢声自身が「これは俺の声だ」と断言したといった逸話が残っている。彼の声帯模写もいくつかレコードに残されており、その至芸を偲ぶことができる。
1932年、小林一三は、東京宝塚劇場(東宝)を設立自らその社長として、従来の松竹中心の東京劇界に進出する。旧知のロッパは早速スカウトされ、翌1934年3月、開場間もない東京宝塚劇場公演『さくら音頭』出演を持ちかけられる。これは仲介に立った東宝側の秦豊吉の不手際から頓挫するが、1935年5月、東宝の前身PCLに引き抜かれる。7月横浜宝塚劇場で一座の公演が始まり、8月には劇団名も「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」と改め、有楽座に出演して『唄ふ弥次喜多』、藤原義江特別参加の『カルメン』、当たり狂言の『ガラマサどん』を上演して大評判となり、ついに丸の内に進出を果たす。1936年には浅草以来の盟友である菊田一夫を招き入れて、ロッパの芸歴の中でも最も輝かしい時期を迎える。当時の日記にはライバル榎本健一に対して「遥かによきものを提供できる自身はついている」 と記したり「日本の東京、その真ん中の東洋一の大劇場を、満員にしてセンセーションを起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望―此の上何を望むべきか、といふ気持ちである。神も仏も護らせたまふ、幸せな僕である」と高揚した気分を記している。
一座の特色は、歌舞伎、新派を基本とした旧来のアチャラカ喜劇に、欧米のモダンさを加え、特にミュージカルを意識して音楽をふんだんに用いた斬新なものだった。狂言の中には必ず「春のカーニバル」「歌えば天国」など音楽中心の物を加えるほどロッパは音楽劇に重点を置いた。その洗練された舞台は、丸の内の、大手企業や外資系企業のサラリーマンを中心とするホワイトカラー層の支持を集め、浅草のブルーカラー層の支持を集めた榎本健一と対抗するものだった。
スタッフも座付作者にはロッパ自身のほか、菊田一夫を擁し、俳優には渡辺篤、三益愛子などの実力派を固める強力さを誇った。一方では徳山璉、藤山一郎、渡辺はま子、中村メイ子、轟夕起子などの人気歌手や芸能人が一座に加えたり、人気作家火野葦平や内田百閒の協力を得るたりと、プロデューサーの才能を発揮して話題を集めた。ロッパ自身も戦後に「企画の新しさと広さと、まわりの芸達者を存分に活躍させることで客をつかんできた」 と述べて自身の企画面の才能を認めている。
『ガラマサどん』、『歌ふ弥次喜多』、『ロッパ若し戦はば』、『ロッパと兵隊』、『ハリキリボーイ』など一連の出し物は大ヒット、菊田作の『道修町』で大阪の観客にまで幅広い支持を得た。また、一座の若手の育成にも力を入れ、その中には後に名をなす森繁久弥、山茶花究もいた。
さらに上述のレコード吹き込みやラジオ出演、ロッパ単独のステージ活動、雑誌への執筆活動と大活躍し、1940年10月大阪北野劇場出演中に病気で倒れるまでの五年間は、ロッパの黄金時代でもあった。
舞台出演の傍ら、映画出演も多く、一座をひきいての喜劇『ロッパ歌の都に行く』『ロッパの大久保彦左衛門』『ガラマサどん』『ハリキリ・ボーイ』などで人気を集めた。演技派としても定評があり『頬白先生』『婦系図』などの映画作品でもシリアスな演技を上手くこなしていた。中でも長谷川一夫と共演した『男の花道』(1941年東宝作品、マキノ正博監督)での芸州浅野家藩医・土生玄磧役が知られている。ロッパ自身映画好きであったが、売れっ子になっても暇を見つけては夥しい数の映画を見ている。たとえば、チャップリンやマルクス兄弟、アルベール・プレジャン、エルンスト・ルビッチなどの外国喜劇映画、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル、『会議は踊る』『ブルグ劇場』などのドイツ映画の名作、ライバルの榎本健一の映画などが日記に書かれており、自身の芸のために熱心に研究していたことが窺われる。
1941年1月、東京有楽座『ロッパと開拓者』『日本の姿』で舞台にカムバックする。第二次世界大戦中は、『花咲く港』『歌と兵隊』『スラバヤの太鼓』『レイテ湾』『歌と宝船』などの舞台や『突貫駅長』『勝利の日まで』などの映画出演、地方への慰問巡業などを精力的にこなしている。だが、方針の違いから菊田一夫と対立し、加えてそれに同調する団員との軋轢、相次ぐ当局からの度重なる検閲や統制、戦時中の食糧難、さらに1944年2月に戦局悪化のため閣議決定された決戦非常措置要領により有楽座帝劇などの大劇場が閉鎖され、これら数々の難問に悩まされる。
戦時中のロッパは、「僕は、何処までも、娯楽のために挺身するため、すべての用意をすべきだ」 と自身の日記に書いているように芸能活動を通じて、国民を元気づけるスタンスを取りつづけたが、理不尽な弾圧や規制には真っ向から反発し、1943年7月、芸名を「ロッパ」のカナ文字使用から「緑波」に変えるように要請された時は憤慨の余り「腹立つ。アダ名なら兎に角、ロッパというのは俺の名だ。それを片仮名で書いちゃあ何故悪い?もう少しで警視庁へのり込んであばれてやらうかと思った」とその思いを日記に書きつけている。そしてあてつけに「フルカワ緑波コウエン」と書いた新聞広告を掲載しようと企てたりと、反骨精神は衰えることがなかった。
戦争末期の1945年、当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め喜劇への検閲を廃止した。ロッパは渋谷の東横映画劇場を本拠地に公演の他、空襲下の京浜地区で工場への慰問活動を行っている。この年の4月2日付の『東京新聞』には『われらチンドン屋』と題した手記を寄稿し「かくて、われらは、アチャラカ芝居と蔑称され、低級喜劇(尤も、高級とよばれたことも一度ある。これは、高級娯楽追放の日だった。)と嘲笑されたところの、われらのポンチ絵本は、今こそ、本来の蠧のまま見えることができるのだ。………われらは挺身して、都民への永年の恩返しをしなければならない。……滑稽芝居の体当たりだ。われらは此の時代のチンドン屋、世紀のヂンタ屋であらねばならない」と悲壮な覚悟を述べている。また、東宝に月給をギャラにしてラジオに出演する事をもちかけたりもしており、困難な状況にもひるむことなく積極的な活動を続けていた。
そんな中、1945年5月25日には空襲で下落合の自宅が焼失する。幸いロッパ自身は東北方面に巡業中、家族も疎開中で難をのがれたが、多くの貴重な文献(日記は防空壕に埋めていたので無事)を失い「本が惜しかった。一冊も疎開させなかったのが口惜しい」と日記には無念さを書き残している。7月に一旦帰京、田園調布の知人宅に身を寄せ、空襲下の最悪の条件下に屈せず、ラジオ出演や慰問活動を行いながら終戦を迎えることになる。
終戦直後の1945年末、映画『東京五人男』出演で活動を再開する。大晦日にはNHK『紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)の白組司会を務める。1945年12月には、戦前からロッパの私的トラブルの相談相手だった上森子鉄(後に総会屋・キネマ旬報のオーナーと知られることになる)を経営者として、一座は東宝から独立。積極的に舞台活動をするが、ホームグラウンドの東京宝塚劇場が占領軍に接収されて活動場所が狭められてしまい、またインフレによる諸経費の上昇によって劇場が満員でも戦前ほどの収益が上げられなくなり、一座の経営も苦境に立ってしまう。
そのような状況下、同年4月東京有楽座で、榎本健一一座と合同公演を行う。出し物の『弥次喜多道中膝栗毛』はロッパ一座の戦前の当たり狂言を元にしたものだが、今回は、ロッパ・エノケンという喜劇の両雄の初共演ということで、笑いに飢えていたファンの支持を受けて大入りとなり二カ月のロングランを記録する。後、二人の共演の舞台や映画が続いて人気を集めるのだが、裏返せば、今までロッパ単独で客が入っていたのが榎本の力を借りねばならないほど人気が衰えたことを示していた。だが、プライドの高いロッパはそれを認めず、川口松太郎ら友人たちや関係者の忠告にも耳を傾けずに旧態依然とした芸風と尊大な態度を維持していた。また、1948年には、上森の多額の横領が発覚して、一座から上森を追放。ラジオなどに人気を奪われたこともあり、劇団の維持が困難となり、ついに1949年には一座の解散に至る。
また、戦時中から台頭してきた清水金一や、元は自らの劇団員でもあった森繁久弥、後輩の伴淳三郎、トニー谷などの新たな人気スターたちに大衆の人気が移ったこと、さらに戦前の横暴も祟って多くがロッパから離れていく。1948年、ロッパは引きたててくれた小林一三のもとを訪れて有楽座出演の希望を訴えるが「ロッパの人気は肥った円い顔にロイド眼鏡だが、今じゃそのロイド眼鏡が珍しくなくなった。実力でいけ。お情けにすがるな」と説教されている。後援者にも見放されたロッパは何とか新境地を開こうとするが、その努力も空しく、映画も三流作品での脇役が多くなり、舞台も大都市から地方巡業が増えていった。
1949年には、アメリカ映画(アグネス・キースのノンフィクション『三人は帰った』 の映画化の「良心的な日本軍人』役)のスクリーン・テストで最終候補にまでなり、話題となったが、ロッパが演じる可能性があった役は、早川雪洲に奪われた。1954年には、社団法人日本喜劇人協会設立に際し、柳家金語楼とともに副会長に就任(会長は榎本健一)しており重鎮としての存在感を示していた。脇役中心ながらもラジオや映画出演は依然多く、日本テレビ開局時より放映開始された連続テレビドラマ『轟先生』で主人公を演じて茶の間の人気を博しており、黎明期のテレビ放送のパイオニア的存在となった功績は大きい。舞台でも1953年3月、東京有楽座の第1回東京喜劇祭りで金語楼、榎本らと共演した『銀座三代』、1958年7月芸術座公演菊田作の『蟻の街のマリア』、翌8月の宇野信夫作『月高く人が死ぬ』の演技が共に高く評価されて気を吐いていた。
しかし、この頃より長年の美食・鯨飲馬食が祟ったことによる持病の糖尿病の悪化に加え、あらたに結核を患い、体調の悪化と戦いながらの活動が続いた。さらに銀行を信用せず常に現金を持ち歩いてそれを盗まれたりして、多額の借金を抱えていった。ロッパは病魔と闘いながら生活のために芸能活動を続けねばならず、映画監督や小説家になる野心も失われていった。
1950年代後期になるとさらに人気は落ちて、舞台や映画も端役が多くなる。体力が落ちたこともあるが、覇気のない演技を批判されたり、弟子筋の森繁久彌から引退勧告を迫られるなど、すっかり過去の人間と成り果ててしまった。病気も悪化する一方で、ついに1960年11月の大阪・梅田コマ劇場公演『お笑い忠臣蔵』出演中に倒れるもようやく千秋楽を迎えて帰京。翌1961年1月3日東京順天堂病院に入院。16日午前11時55分に肺炎と全身衰弱で死去した。そして葬儀は1月21日の正午より東京都港区の青山葬儀所にておこなわれた。晩年の彼の日記には、日々喀血と呼吸困難に苦しめられる様子が克明に描かれている。ロッパ死去の報を伝える新聞記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい哀れな最期だった。
大の美食家・健啖家、読書家、そして日記魔としても知られる。学生の頃から文藝春秋に出入りして映画関係の雑誌を編集するほどの文才があった。文芸・演劇批評でも『劇書ノート』という演劇関係本を書いたり、『演劇界』などの専門誌に数多くの劇評を載せたりもしている。また、歌舞伎、新派、映画関係者はもちろん、谷崎潤一郎、宇野浩二、菊池寛、川口松太郎などの作家や小林一三、森岩雄ら興業関係者、鈴木文史朗らマスコミ関係者、嘉納健治らの侠客など幅広い交友関係を持っていた。
食への飽くなき追求に関しては、『あまから』誌などに自らの食談についての連載を持ち、また自らが綴った日記にも頻繁に記されている。これらについては、晩年『ロッパ食談』や『悲食記』(筑摩書房〈ちくま文庫〉で、『ロッパの悲食記』として再刊)を出している。それだけに戦時中の食糧事情の悪化には悩まされ、あらゆる伝手を用いて美味を追い求めている。それだけに悲惨な食事に対しては、「何たる東京!ああもう生きていてもつまらない……涙が、出そうな気持。食うものがなくなったからとて自殺した奴はいないのかな」と深刻な思いを述べている。此の美食癖は晩年まで続き、経済的に苦しい状況になっても止めることはなかった。
ロッパが学生時代、菊池寛に西銀座の一流レストランで西洋料理をおごってもらい、その美味さに感動、「ああいう美味しいものを、毎日食える身分になりたい、それには、何しても千円の月収が無ければ駄目だぞ」と発奮。成功を修めてようやく千円の月収を手に入れたときには戦時中の食糧難となり「努力を続け、漸くその位の頃ができる身分となったのに…」と菊池に愚痴をこぼした。
日記については、浅草でデビューした頃から死の直前まで休み無く綴られており、ある俳優の一代記としてだけではなく、日本喜劇史・日本昭和風俗史においても、貴重かつ重要な資料となっている。これらの日記については、一部散逸したものを除き、『古川ロッパ昭和日記』として出版されている。
文藝春秋社から独立して発行した雑誌の失敗もあって金銭面ではうるさく、出演料でしばしば興行主ともめたり、「……貧乏貴族で、そのせいかケチでしたね。座長部屋では誰も見ていないと、札束を勘定してる。銀行には不安で預けられないんです」(一座の俳優の述懐)といわれるほどだった。その一方では金銭感覚に乏しく、食事や遊興に浪費するだけでなく、劇団経営の出費がかさみ、戦後には税金対策に無頓着なたこともあって、晩年は借金まみれでその日の暮らしにも困る有様だった。、
小沢昭一によれば、ロッパは、友人の正岡容の通夜に参列した時、浪曲師の相模太郎に対して「この香典は何だっ!」と罵倒した。正岡作の浪曲『灰神楽三太郎』で売った相模にとっては額が少なすぎるということで、あまりの剣幕に周囲は声も出なかったと証言している。当時、貧窮していたロッパは香典を用意できなかったようで、その無念さが相模への態度につながったと言われている。
ロッパの文才やネーミングのセンスの良さは、「声色」(こわいろ)を仰々しく言い換えた「声帯模写」(せいたい もしゃ)という新語や、「ハリキる」「イカす」など、のちに日本語の口語会話に定着した造語からも伺える。またダジャレの名手で、「菊池寛」をもじって「クチキカン」、「ユージン・オニール」と聞いて「オニールとは君の友だね。」と即興で答えるなどの話が残されている。
麻雀好きで、日記にはどんなに多忙であろうと、あるいは空襲下であろうと晩年の病苦に悩まされようが麻雀を楽しんでいる記事が書かれている。相手は座員や心を許した友人たちだった。日本麻雀連盟(略称 日雀連)が昭和7年に開いた新得点を決める会合において、ケチ臭いから500点に決めよう!とロッパが力説したことにより、麻雀のルールにおいて満貫が子あがりで8000点となった。そのほか、ポーカーもしばしば行っていた。
かなりのヘビースモーカーで、晩年、結核を患っても喫煙を続けるほどであった。喀血を繰り返すたびに禁煙を行うのだが長続きせず、ついには家族から意志の弱さを強く責められてしまうほどであった。
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