北原白秋の出身高校
北原白秋 俳人
- 北原白秋卒業高校
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- 40位 / 63人中 俳人別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1885年(明治18年)1月25日生まれ
北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれる近代の日本を代表する詩人である。
弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエ社を創業し、従弟の北原正雄も写真系の玄光社を創業した。
1885年(明治18年)1月25日、熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれ、まもなく福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)にある家に帰る。父・長太郎、母・シケ。北原家は江戸時代以来栄えた商家(油屋また古問屋と号し、海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業としていた。1887年(明治20年)、弟・鉄雄が生まれる。またこの年、白秋に大きな影響を与えた乳母・シカがチフスで逝去する。
1891年(明治24年)、矢留尋常小学校入学。1897年(明治30年)、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)に進むも、1899年(明治32年)には成績下落のため落第。この頃より詩歌に熱中し、雑誌『文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派に傾倒したとされている。1901年(明治34年)、大火によって北原家の酒蔵が全焼し、以降家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年、初めて「白秋」の号を用いる。1904年(明治37年)、長詩『林下の黙想』が河井醉茗の称揚するところとなり、『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。1905年(明治38年)には『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。この頃、少年時代南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父が亡くなる。
1906年(明治39年)、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友さらに広がる。また、この頃より象徴派に興味を持つ。1907年(明治40年)、鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚める。また森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。1908年(明治41年)、『謀叛』を発表し、世評高くなる。またこの年、新詩社を脱退した。木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加。この会には吉井勇、高村光太郎らも加わり、象徴主義、耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。1909年(明治42年)、『スバル』創刊に参加。木下らと詩誌『屋上庭園』創刊。また処女詩集『邪宗門』上梓。官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるも、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされた。
1910年(明治43年)、『屋上庭園』二号に掲載した白秋の詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ、発禁処分を受けた(同誌は年内に廃刊)。またこの年、松下俊子(名張市の医師の娘、後述)の隣家に転居。(東京原宿)。 1911年(明治44年)、第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家に捧げられた懐旧の情が高く評価され、一躍文名は高くなる。また文芸誌『朱欒』を創行。1912年(明治45年 / 大正元年)、母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。
白秋は隣家にいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられたが、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。1913年(大正2年)、初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。特に『桐の花』で明星派のやわらかな抒情をよく咀嚼した歌風を見せ、これによって白秋は歌壇でも独特の位置を占めるようになる。春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。『朱欒』廃刊。発行期間は短かったが、萩原朔太郎や室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなった。その年、長野県佐久のホテルに逗留し、執筆活動を行った。
1914年(大正3年)、肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。『真珠抄』『白金之独楽』刊行。また『地上巡礼』創刊。1915年(大正4年)、前橋に萩原朔太郎を訪う。弟・鉄雄と阿蘭陀書房を創立し、雑誌『ARS』を創刊。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』刊行。1916年(大正5年)、詩人の江口章子と結婚し、東京・小岩町の紫烟草舎に転居。筆勢いよいよ盛んにして『白秋小品』を刊行する。1917年(大正6年)、阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。
1918年(大正7年)、小田原に転居。鈴木三重吉の慫慂(しょうよう、しきりに強く勧める事の意味)により『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当。優れた童謡作品を次々と発表し、作品に新生面を拓くのみならず、以降の口語的、歌謡的な詩風に強い影響を与えることになる。1919年(大正8年)、処女小説『葛飾文章』『金魚』発表。生活ようやく落ち着き、歌謡集『白秋小唄集』、童謡集『とんぼの眼玉』刊行。それまで一室を借りていた伝肇寺(でんじょうじ)の境内に住宅を建て「木菟(みみずく)の家」と名付ける。1920年(大正9年)、『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。伝肇寺境内の住宅の隣に山荘を新築した際の祝宴は、小田原の芸者総出という派手なものであった。それに白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発し、章子を非難する。着物ほとんどを質入れしたと言う章子は非難されるいわれもなく反発。章子はその晩行方をくらまし、白秋が不貞を疑い章子と離婚。1921年(大正10年)、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。信州滞在中想を得て、『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。1922年(大正11年)、長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。歌謡集『日本の笛』などを刊行。1923年(大正12年)、三崎、信州、千葉、塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊する。
1924年(大正13年)1月5日、田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行、龍華寺、羽衣の松などを観光、長歌1首、短歌173首を作る。同年短歌雑誌『日光』を創刊。反アララギ派の歌人が大同団結し、象徴主義的歌風を目指す。1925年(大正14年)、長女・篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊ぶ。童謡集『子供の村』など刊行。1926年(大正15年 / 昭和元年)、東京谷中に転居。詩誌『近代風景』創刊。童謡集『からたちの花』『象の子』などを刊行。1927年(昭和2年)、出版内容の競合からアルス社と興文社に悶着が起こり、興文社側の菊池寛と対立。詩論集『芸術の円光』刊行。1928年(昭和3年)、世田谷区に転居。大阪朝日新聞(現・朝日新聞)の企画により、福岡県大刀洗町から大阪まで飛行機に搭乗する。1929年(昭和4年)、『海豹と雲』など刊行。また『白秋全集』の刊行開始。1930年(昭和5年)、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立寄り、しきりに家族旅行に出かける。1932年(昭和7年)、吉田一穂、大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊。1933年(昭和8年)、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降『赤い鳥』に筆を執ることはなくなる。また同年の皇太子誕生の際には、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せる。1934年(昭和9年)、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊ぶ。
1935年(昭和10年)、新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行。この年、50歳を祝う催しが盛大に行われる。1937年(昭和12年)、糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし、入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。1938年(昭和13年)にはヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。1940年(昭和15年)、日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲:信時潔)の作詩にあたる。1941年(昭和16年)春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。1942年(昭和17年)、小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日、阿佐ヶ谷の自宅で逝去。享年57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。
歌碑
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