冨田勲の出身高校

冨田勲 ミュージシャン

冨田勲卒業高校
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生年月日
1932年4月22日生まれ

冨田 勲(とみた いさお、1932年4月22日 - )は、日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。

1950年代、慶應義塾大学文学部在学中に作曲家として活動を始め、NHKや民放における数々のテレビ番組、また映画や虫プロダクション関連のアニメーションなど多くの作品で音楽を担当した。特に大河ドラマやNHK番組、虫プロアニメの主題曲、BGMは、繰り返し単独やオムニバスでレコードやCDが発売されて今なお愛され続けている。これらの多くではまだ電子音はほとんど取り入れられていないが、メロディ作りにもアコースティックのオーケストレーションにも才能を発揮し、各社のオファーは絶えなかった。

初期のころにおいては、作曲家として活動する一方、従来のオーケストラという演奏形態に飽きたらず、新たに出現してきた電子機器と古典的な楽器を融合させるなど、様々な音楽の可能性を追求した。その後1969年にモーグ・シンセサイザーと出会ったことが転機となり、これ以降は古典的名曲をシンセサイザーによって現代的な解釈を加えて発表するという活動が中心となった。「イサオ・トミタ」の名は、広く世界に知られている。

1932年(昭和7年)東京府(現東京都杉並区)生まれ。当時紡績会社「鐘紡」の嘱託医だった父の転勤で、四歳から中国青島、山口県防府市、中国北京で過ごす。この時期、父に連れられて天壇公園に行き、回音壁の音を聞いたことが、のちに音楽家になる原点となった。1939年(昭和14年)帰国し、小・中学時代は父親の実家の愛知県岡崎市本宿町に住む。この頃、竹を使って手作りの笛を作り、その音を鳴らして遊んでいたという。愛知県岡崎市立本宿小学校卒業、愛知県岡崎市立東海中学校卒業、愛知県立岡崎高等学校から慶應義塾高等学校に編入する。作曲家小森昭宏と同期。慶應義塾大学文学部卒業。

妻は往年の歌手本間千代子の姉明子。実弟の冨田稔は医学博士、冨田病院院長、慶應義塾大学客員教授。息子の冨田勝は、慶應義塾大学医学部および環境情報学部の教授。娘は妹尾理恵。

”またいとこ”に西澤潤一(元東北大学総長で半導体素子の研究者)がいる。

愛知県立岡崎高等学校から慶應義塾高等学校に編入。作曲は独学ではあったが、高校2年からは平尾貴四男、小船幸次郎に師事。作曲家小林亜星、フルート演奏家の峰岸壮一も高校で同じクラス、作曲家林光はとなりのクラスであった。高校時代、既に歌手本間千代子も所属するみすず児童合唱団で指導もしていた。

大学は慶應義塾大学文学部で美学美術史を専攻、その傍らで弘田龍太郎について音楽理論を学ぶ。大学2年で、朝日新聞社主催の全日本合唱連盟のコンクールの課題曲に応募した作品合唱曲「風車(ふうしゃ)」が1位となる。これにより作曲家への道を歩む決意を固め、在学中からNHKの音楽番組の仕事をはじめ、作曲活動に入る。1955年に大学を卒業する。大学在学中から既にひばり児童合唱団でも演奏、指導、作曲などをしていた。

1956年のメルボルンオリンピックに参加した日本女子体操選手のための伴奏音楽の作曲や、日本コロムビアでの学校教材用のレコード、森永製菓などコマーシャル音楽の編曲を手掛け、プロの音楽家として活動を始める。NHKのラジオドラマ立体音楽堂や、NHKのテレビ番組『新日本紀行』、『きょうの料理』などのテーマ音楽の作曲、NHK大河ドラマ(池辺晋一郎と並んで現在最多の5作品を担当)の音楽の作曲、東映動画の劇場用作品、手塚治虫原作のTVアニメ『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』、『どろろ』、円谷プロや東映の特撮番組など、放送・映画・アニメ・ドキュメンタリー・イベント・舞台・学校教材・コマーシャルソングなどの多くの仕事を並行に進めながら膨大な数の作品を世に送り出した。

1969年に、大阪万博の東芝IHIのパビリオンの音楽を録音するため、大阪に滞在した。訪れた輸入レコード店で、モーグ・シンセサイザー (MOOG III-C) を全面的に用いて作成されたワルター・カーロス(現在はウェンディ・カルロス)の『スイッチト・オン・バッハ』と出会い、これこそ求めているものだと直感した。1971年秋頃、モジュラー式のモーグ・シンセサイザー(モーグIII-P画像)を日本で初めて個人輸入した。非常に高額な楽器であり、金銭面で苦労したという。

当時、楽器として輸入しようとしたところ、日本ではシンセサイザーがほとんど認知されていなかったので、税関から軍事機器(むしろアナログコンピュータそのものであろう)と疑われ、税関の検査場で数ヶ月間止められ、しかもその間の保管料を請求されたといったエピソードがある。楽器とは関税率が異なる精密機器として扱われそうになったので、楽器であることを証明する必要があったとされる。証明に時間がかかったのは、シンセサイザーの演奏写真を送ってくれと頼んだのに、いつまでも来なかったからで、証明に使われたのはキース・エマーソンの演奏写真。

モーグには説明書が付属していなかったので、使い方が全くわからずに苦戦し、「高いだけの鉄くずを買ってしまった」と後悔している。 その後、自宅にマルチトラックレコーダーも備える電子音楽スタジオを設置し、電子音による管弦楽曲の再現を試行錯誤しながら、数々の作品を作曲・編曲した。この時期から映像音楽作品にもシンセサウンドを多く用い始めた。

(習作として、TBSブリタニカ発行の世界子供百科付録の2枚組ピクチャーLPアルバム「音楽ってたのしいな」(1972)の中で既にシンセサイザーを用いた「銀河鉄道の夜」が、また同1972年にMOOGIIIを使用した「スイッチト・オン・ヒット&ロック」がCBSソニーからSQ-4方式4chステレオ作品として既に出てはいた)

1974年、シンセサイザーの導入から1年4ヶ月を費やしたシンセサイザー音楽作品としてのデビュー・アルバム『月の光』を制作。

当時このアルバムを日本の各レコード会社にもちこんだところ、「クラシックでもポピュラーミュージックでもなくレコード店の棚に置く場所がない」などの営業的な理由ですべて断られたとされる。そののち当時の日本RCA東京出張所長(後にワーナーパイオニアレコードの社長)山本徳源に頼んで米国RCAのニューヨーク本社にテレックスを打ってもらったところ直ちに会おうという回答を貰った。米RCAレコードに持ち込んで契約に成功してレコード「Snowflakes are dancing」をリリースしたところ、大好評を得て1975年1月18日付けのビルボード全米クラシカル・チャートで第2位にランキングされた(それ以前に日本人による音楽曲がビルボード誌上にランク入りをしたのは、作詞:永六輔、作曲:中村八大、唄:坂本九の「上を向いて歩こう」(米名「SUKIYAKI」)が1963年6月15日にビルボード誌で週間ランキング第1位、1963年年間ランキング第10位となって以来で、二度目のことであった)。

1974年には日本人として初めてグラミー賞にノミネートされた。この快挙はNHKなど国内のマスコミによっても報じられ、米国RCAレーベルのレコードが国内に(『月の光-ドビッシーによるメルヘンの世界』として)逆輸入されるなどによりその作品が知られるようになった。 またNARM(National Association Of Record Merchandiserers 全米レコード販売者協会)の1974年最優秀クラシカル・レコードにも選ばれた。さらに、次作の『展覧会の絵』は(1975年8月16日付けの)ビルボード・キャッシュボックスの全米クラシックチャートの第1位を獲得し、1975年NARM同部門最優秀レコード2年連続受賞し、1975年度日本レコード大賞・企画賞を受賞した。次作の「火の鳥」は(1976年3月20日付けの)ビルボード全米クラシックチャート第5位を、さらにその次作の『惑星』も(1978年2月19日付けの)ビルボード全米クラシック部門で第1位にランキングされた。『バミューダ・トライアングル』では発売翌年のグラミー賞で "Best Engineered Recording"に2回目のノミネートを受けた。1983年のアルバム『大峡谷』では3回目のグラミー賞のノミネートを受けた。以降『バッハ・ファンタジー』(1996年)まで、冨田勳のアルバムはいずれも世界的なヒットを記録している。

1979年に米コンテンポラリー・キーボード誌の読者投票により“ベスト・スタジオ・シンセシスト”に選ばれた。冨田のシンセサイザー作品群は、すべての音色づくりはもちろん、全パートの演奏、録音、編集までを含めて冨田自身の一人の手による制作であり、現在のパーソナルスタジオによる音楽制作の先駆けであったといえる.

ここで教えを受けながら助手として働いた松武秀樹は、後にイエロー・マジック・オーケストラの第4のメンバーとして、シンセサイザー・マニピュレーターの役割に就いた。海外ではスティービー・ワンダーが来日した際に、最も尊敬している音楽家として冨田の名前を挙げている(後に長良川でのサウンドクラウドに登場している)。マイケル・ジャクソンも来日(1987年9月24日)の際に、冨田のスタジオを訪問した。また『惑星』の立体音響に深く感銘したフランシス・フォード・コッポラ監督は、映画『地獄の黙示録』の音楽を冨田に要請したが、レコード会社との専属契約の関係で実現には至らなかったとされる。

1979年には日本武道館で、ピラミッド・サウンドによる立体音響ライブ「エレクトロ・オペラ in 武道館」(小松左京プロデュース)を開催。1980年にはジャパンレコード(現・徳間ジャパンコミュニケーションズ)の社長に就任したが、アーティストとしてはRVC(現・BMG JAPAN)所属のままであった(その後も徳間ジャパンからの作品のリリースはなかった)。

1984年オーストリアのリンツでドナウ川両岸の地上・川面・上空一帯を使って超立体音響を構成し、8万人の聴衆を音宇宙に包み込む壮大な野外イベント「トミタ・サウンドクラウド(音の雲)」と銘打ったコンサートを催す。以後、サウンドクラウドを世界各地で公演してきた。ドナウ川では「宇宙讃歌」、続いて1986年ニューヨークのハドソン川では「地球讃歌」、1988年日本の長良川では「人間讃歌」を成功させ、共感するミュージシャンとともに、音楽を通じた世界平和を訴え続けてきた。1990年から1992年まで3回にわたりBunkamuraオーチャード・ホール(東京都渋谷区道玄坂)に於いて「トミタ・サウンドクラウド・オペラ "ヘンゼルとグレーテル"」を上演。1998年には、日本の伝統楽器と西洋オーケストラとシンセサイザーによる『源氏物語幻想交響絵巻』を作曲。東京、ロサンゼルス、ロンドンで初演、自ら指揮棒を振った。1999年メディア・アーティスト協会創設に参加。

2001年には、東映50周年記念作品映画『千年の恋 ひかる源氏物語』の音楽を作曲し日本アカデミー優秀音楽賞を受賞。また、東京ディズニーシー・アクアスフィアのための3面立体音響シンフォニーを手掛ける。2002年には、作曲活動50周年、シンセサイザーでの音楽制作30周年の節目の年を迎えた。2005年3月開催の愛・地球博(愛知万博)の公式催事である前夜祭セレモニーをプロデュースした。

近年は、これまでのシンセサイザー・アルバムを5.1チャンネルサラウンドで製作し、完結することに注力している。

映画では手塚原作の『ブラック・ジャック ふたりの黒い医者』、山田洋次監督による『隠し剣 鬼の爪』、『武士の一分』、『母べえ』、『おとうと』の音楽を手がけた。

また、2006年10月には、奥三河の霊山である鳳来寺山の鏡岩の反射音を利用した立体音響による『仏法僧に捧げるシンフォニー』を発表。2007年6・7月にはNHKの『みんなのうた』で「鳳来寺山のブッポウソウ」として放送された。

後進の育成にも特に力を注いでいる。尚美学園大学で2000年から4年間を音楽メディアコースの主任教授を務めた後も芸術情報学部の大学院教授として「冨田研究室(トミタメソッド)」が開設され、音楽界やメディア界の第一線で1952年以来半世紀余り活躍して得た豊富な知識と経験を若手に伝授している。

2012年9月7日放送のタモリ倶楽部に松武秀樹と共にゲスト出演し、モーグ・シンセサイザー購入の経緯を語ったり、音作りの基本をモーグ・シンセサイザーを用いて説明した。

2012年11月23日にはVOCALOID(電子声の楽器ソフトウェア、およびそれに付随するキャラクター、基本技術はヤマハが開発し、クリプトンフューチャー社がPC用ソフトウェアとして発売)を起用して作曲された『イーハトーヴ交響曲』を東京で初演。

『冨田勲の世界』というアルバム(これはLPで,これまでCD化はなされていない)によって、音作り作業の一部が公開されている。

同じメロディを何十回も多重録音し、大規模な弦楽セクションの様な演奏を作り出す、というような気の遠くなるような作業によって、重厚なサウンドが作られている。「一度録音した音をコピーしてもいいのだが、一回一回手で弾いて重ねた方が音に厚みが出る」とは、同アルバムの中に記載されているコメントである。

映画「風の又三郎 ガラスのマント」で音楽を共同で担当した国本佳宏のコメントによると、「一つの音で最低100回は重ねていた。地方のオーケストラの一番後ろに座っているようなバイオリニストの音まで忠実に音を重ねていた。」と述べている。

『惑星』の冒頭の宇宙ロケット打ち上げの効果音を作る際に、カウントダウンの声をおもちゃのトランシーバーを通して録音し、わざとノイズが混じるようにしている。この様に、「ハイファイな音だけでなくて、ローファイな音も使う」という考え方を持っている。

冨田勲の音楽には、アルバムの演奏の随所に登場するお馴染みの音色がある.ある作品の音色が別の作品の脇役として登場する演出が少なくない。これは、手塚治虫の漫画におけるスター・システムの手法をサウンドに取り入れたものであるという。試行錯誤して自分で作ったこれらの音色に対して冨田は、わが子のように愛着のある連中であるという。主なキャラクターには、「パプペポ親父」、「口笛吹き」、「少女のハミング」、「女神のソプラノ」、「森のコーラス」等と名前を付けている。

また、冨田が100%自在に操ることのできる専属のデスクトップ・オーケストラを、「プラズマ・シンフォニー・オーケストラ(PSO)」と表現しており、シンセサイザーのそれぞれの音色を構成するモジュールを楽団員として扱っている。

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