八田一朗の出身高校
八田一朗 スポーツ選手
- 八田一朗卒業高校
- 早稲田大学高等学院 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
- スポーツ選手ランキング
- 2位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1906年6月3日生まれ
八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 1983年4月15日)は、日本のレスリング選手・指導者、政治家である。日本レスリング界の父であり、参議院議員も務めた。また、1964年東京オリンピック招致にも尽力した。広島県安芸郡江田島町(現・江田島市)出身。
父親が海軍兵学校の教官だったため、幼少時代を江田島で、その後父親の軍港地への転勤で呉、佐世保などで育つ。旧制開成中学校に入学するが旧制海城中学校に編入学し早稲田第一高等学院を経て1932年早稲田大学政治経済学部を卒業。同郷の織田幹雄は早稲田の一学年上にあたる。
早大在学中の1929年、所属した柔道部がアメリカ遠征を行うがレスリングに敗北。負けたことで1931年、八田は同志数名と大学にレスリング部を創設した。これが日本のレスリングの始まりである。レスリング部創設に時間がかかったのは、柔道家でありながらレスリングを重要視するなど、船来かぶれの異端者と周囲の迫害が激しかったためである。当時、八田は体育協会から派遣されて嘉納治五郎の秘書をしていたが、嘉納からは「レスリングを始めるのもよいが、五十年かかるよ」と言われたという。八田は嘉納の言葉を宝物のように心にとどめた。八田の晩年の弟子・松浪健四郎 は、「生まれ故郷の柔道界に敵対心を持ち続けることで、己の闘志を鼓舞させ、不退転の決意を持続させることができたのではないか」と述べている。
1932年4月、同志と共に「大日本アマチュアレスリング協会」を創立。しかし体協には認められず。他にオリンピック目当てのレスリング団体が雨後のタケノコのように名乗りを上げ、他団体のけん制によって妨げられたが、仲介者により「大日本アマチュアレスリング協会」と講道館派と「大日本レスリング協会」の三団体から2 - 3人ずつが出場するという折衷案で体協の公認を得て、同年のロサンゼルスオリンピックに出場。しかし八田以下6人の柔道高段者がいずれも敗北。このころはまだレスリングは柔道の亜流との考え方が強かったが、八田は柔道とレスリングの違いをはっきり認識、単身アメリカに渡りレスリング修行。帰国後、早大の大隈講堂の隅にレスリング専門道場を作った。これで日本レスリングの基礎が固まった。
先のオリンピックによる敗北で、そのためだけに結成された他の団体は自然に消滅し「大日本アマチュアレスリング協会」だけが存続して今日の日本レスリング協会(1946年に「大日本アマチュアレスリング協会」から改称)に発展した。
二度に渡る兵役、6年余を中国で従軍、除隊を経て戦後、日本レスリング協会第3代会長(1946年4月 - 1983年4月)。40年近くの長きに渡り会長を務め、その強烈な個性とカリスマ性で日本を世界に互して戦えるレスリング王国に築き上げた。戦前から築き上げてきた国際的な人脈がものをいい、日本レスリング協会は、国際レスリング連盟(FILA)への復帰が認められ、レスリングは他の競技に先駆けて1949年、国際大会に参加が認められた。アメリカスポーツ界を見学した織田幹雄の助言を受け1950年、日米対抗試合開催。それまで力まかせの日本レスリングにアメリカから学んだ技が加わり、日本レスリングは急激な進歩を遂げた。1954年世界レスリング・フリースタイル選手権大会東京招致。監督として日本チームを率いた1952年ヘルシンキオリンピックでは、石井庄八が戦後初となる金メダルを獲得したのを始め、金5個を量産した1964年東京オリンピックを筆頭に、オリンピックで金20、銀14、銅10のメダルをもたらし、柔道、体操に並ぶ日本のお家芸とした。
その間、世界大会でダントツの成績を残していた、当時渡航が難しかったソ連に選手派遣を実現させたり、中国、北朝鮮など多くの国を訪問、スポーツを通じた国際交流を図る。大韓オリンピック委員会(KOC)(大韓体育会内)委員長などを務めた李相佰が早稲田の後輩という関係で、戦後の韓国レスリングの面倒を積極的にみたり1953年頃からは、レスリングを国技とみなす国が多い西アジア諸国に盛んに選手を送り出した。アフガニスタンの専門家として世に出た松浪健四郎は、もともと八田が松浪を同国にレスリング指導者として派遣したもの。八田が海外遠征に送り込んだ選手は延べ約1000人に及ぶ。その中には、渡米してそのままニューヨークにとどまり、レストラン「BENIHANA」の成功で大富豪となり、レスリング協会に多額の寄付をしたロッキー青木らも含まれる。俳句を通じて三笠宮夫妻らと交友を深め、1948年の国民体育大会からレスリングが正式採用されたのも三笠宮崇仁親王の尽力があったからという。もともと四角のレスリングのマットが、現在のように円形になったのは1971年、八田の提案をFILAが受け入れたもの。八田の頭に相撲の土俵のイメージがあったといわれる。1965年7月には参議院議員選挙に自民党から立候補し当選。スポーツ議員第1号となった。このときは目覚ましい成果を挙げた1964年東京オリンピックの翌年だったこともあって、戦前「この非常時に外国のお遊びとは何事か」とレスリングを排斥し、戦後も学校教育の中に取り入れない文部省を「徹底的にやっつけてやる」と吠えた。
プロレスや他のスポーツ界にも大きな影響力を持った。特に今は無い国際プロレスに当時全く日本には知られていなかったヨーロッパの外国人レスラーを紹介、モンスター・ロシモフ(のちのアンドレ・ザ・ジャイアント)やビル・ロビンソンなどの多くの強豪外国人プロレスラーが来日を果たした。また、明治大学レスリング部のサンダー杉山をプロレス界に入れたり、中央大学のレスリング部にいたジャンボ鶴田に「プロが栄えればアマも栄える」と説いてプロレス入りを決意させたことも有名。さらにアントニオ猪木対モハメド・アリ戦のきっかけを作ったことでも知られ その業績は多岐にわたる。
「ソ連のレスリングの強さの秘密はサンボにある」と、レスリングにサンボの導入を試み、1963年にはソ連レスリング選手団と共に4名のサンビストを初来日させた。当時、日本人はサンボに関する知識をまったく持っていなかったが、これは日本柔道界へ警鐘的役割も果たした。さらに八田は、サンボそのものを日本に根づかせようと1965年に日本サンボ連盟を設立、ビクトル古賀(古賀正一)をソ連に派遣し、日本とソ連の交流パイプを構築した。ビクトルはその後もサンボの国際的な普及に大きな役割を果たした。他にオランダで「練習相手がいない」とこぼしていたアントン・ヘーシンクに「大きい選手もいるし、寝技もうまくなる」と1958年頃、ヘーシンクにレスリングを練習を勧めたという。
1964年東京オリンピック招致は、1959年春に招致の成否を握ると言われた中南米を歴訪したフレッド・イサム・ワダの話が有名だが、ワダの行脚に先立つ4か月前、ほぼ同じコースを八田は東京都議・北島義彦と旅している。北島には「東京オリンピック大会招致実行委員長」という肩書があり、ブラジルのIOC委員には東京支持の確約を得ていたという。
東京オリンピックを目前に控えた1964年、当時早大レスリング部監督とレスリング全日本のコーチを兼任していた白石剛達を東京12チャンネル(現テレビ東京)に推挙。白石はその後、同局の初代運動部長を務め、白石率いる東京12チャンネル運動部が、『三菱ダイヤモンド・サッカー』、メキシコワールドカップ、ローラーゲーム、女子プロレス、モハメド・アリの世界戦、箱根駅伝などを、他局に先駆けて中継し、日本のスポーツ中継の発展に大きな足跡を残した。
日本体育協会理事、国際レスリング連盟常任理事、世界アマチュアレスリング連盟副会長他、社団法人日本ウオーキング協会、財団法人日本プロスポーツ協会、財団法人健康スポーツ連盟、日本サーフィン連盟などいずれも初代会長に就任、ジャパンケンネルクラブ「JKC」、ボディビル協会他、会長や相談役などを引き受け、これらの団体の発展に大いに寄与した。まだ「スポーツクラブ」という概念すらなかった1970年、総合スポーツクラブの草分け「スポーツ会館」(現:GENスポーツパレス)を建設した。
1983年4月15日死去。76歳没。
次男・八田忠朗は1991年からアメリカレスリング協会の女子強化コーチの一員である。2003年、八田最後の弟子ともいわれる福田富昭が日本レスリング協会会長に就任している。なお近年男子レスリングは苦戦。不参加の1980年モスクワオリンピックを除いて12大会連続でメダル獲得中だが、金は1988年のソウルオリンピックが最後であった。しかし2012年、ロンドンオリンピックに於いて、米満達弘が6大会24年ぶりとなる男子レスリングで金メダルを獲得した。
2013年9月28日八田一朗氏(日本体育協会初代会長)の功績を称えると共に、八田イズム(気概)を学生達にもと云う事で八田氏のレスリング界での教え子松浪健四郎・上武洋次郎(現小幡洋次郎)・花原勉・藤本英男などの尽力により日本体育大学レスリング部合宿所(横浜市青葉区・日体レスリング会館)玄関に銅像が建立(除幕)された。日本レスリング協会HP抜粋
「八田イズム」とも呼ばれたスパルタ指導法はいまや伝説となっている。 「狩りの犬 獲物を追って どこまでも」という俳句を詠み、好んでこの句を色紙に揮毫した。
しかしながらこういった逸話も、マイナーといわれたレスリングの話題作りのため、との見方もありアイデアに長けた会長だったともいわれている。.
6年余の軍隊での不条理で非合理な体質に憤り、1964年(昭和39年)当時から世間の根性論にも批判的で、正しい根性論と間違った根性論の違いを認識し、著書の「私の歩んできた道」の<竹やり根性>と<負け犬根性>で「正しい技術の練磨と、その実力の苦しい鍛錬を忘れて、精神力だけで万一の優勝を期待していたようなところが日本のスポーツ界にはなかっただろうか。それでは外国の力には勝てない。」と著し、八田イズムもシャイな日本人が世界で勝てる環境に左右されない図太い神経を身に付ける合理的なトレーニングと当時の選手は認識していた。
また神経戦もうまく、ソ連やトルコは練習を公開しなかったが、練習を公開し柔道をやらせたり、記者会見で合気道をやらせるなどのデモンストレーションを行った。こういう新手がある、という心理作戦に外国の連中は引っかかった。
1964年東京オリンピック開催期間中、銀座の老舗宝飾店に金メダルを飾らせた。
ほか
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