克美しげるの出身高校

克美しげる ミュージシャン

克美しげる卒業高校
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生年月日
1937年12月25日生まれ

克美 しげる(かつみ しげる、1937年12月25日 - 2013年2月27日)は、日本の歌手。本名は津村誠也(つむら せいや)。1975年から1976年にかけては芸名を『克美 茂』と表記していた。

渡辺プロダクションなどに所属。宮崎県宮崎市出身。

1950年代末に始まったロカビリー・ブームを追い風に、ヒットポップスの日本語カバーでヒット曲を連発、その後、テレビアニメ『エイトマン』の主題歌や『さすらい』などのヒット曲によって流行歌手として活躍した。

1956年、宮崎県立宮崎大宮高等学校在学中に、仲間と音楽グループを結成。その後、大阪へ行きジャズ喫茶で歌っていた水原弘の付き人を志願。採用には至らなかったが、水原から有名なバンドリーダーを紹介されるなど、両者の親交は長く続いた。

高校卒業後、神戸に転居。関西で活動していた“マウンテン・ボーイズ”にバンドボーイとして採用され、その1年後には同バンドで最年少ながら、自ら名乗った芸名・勝己しげるでボーカルを担当し人気を博した。

1960年、NHK(大阪)が主催したオーディションに合格。1961年、芸名を「克美しげる」に改め、同じく改名したバンド “ロック・メッセンジャーズ”と共に東京に進出した。ジャズ喫茶でのステージにて東芝レコードのディレクターからスカウトを受け、ジョン・レイトンのヒット曲『霧の中のジョニー』の日本語カバーでレコードデビューし、40万枚を売り上げるヒットとなった。

1963年、テレビアニメ『エイトマン』の同名主題歌を歌った。1964年、歌謡曲路線に転じた『さすらい』が60万枚のヒットとなり、翌1965年と2年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。また1965年には『人形佐七捕物帳』(NHK総合)に豆六役でレギュラー出演を果たしたが、その後は人気が低迷していった。

1975年、低迷からの脱却を図るべく、東芝レコードによるカムバック企画“3000万円作戦”を実施。芸名表記も「克美茂」に改め、『傷』で再デビューした。1976年5月6日、以前より妻子がありながらも離婚したと嘘を付いて交際を続け、経済的援助も受けていたホステスで愛人の女性Oが、カムバックの足手まといになると考え殺害。知人が所有する自動車を借り、トランクに遺体を隠したまま羽田空港の駐車場に駐車し、北海道へキャンペーンに出発した。5月8日に遺体が発見され、車の所有者から割り出した克美を逮捕。8月23日、東京地方裁判所にて懲役10年の実刑判決を受け、服役。

1983年10月、収監されていた大阪刑務所より仮出所。かつてのバンド仲間でもある元マネージャー・大谷羊太郎(推理作家)の助力を得て音楽事務所を開いた後に再婚。カラオケ教室も設立し、自ら指導をしていた。1989年5月11日、覚せい剤取締法違反(不法所持)で逮捕され、懲役8ヵ月の実刑判決を受けた。

1996年、31歳年下の夫人と4度目の結婚をするが、その後は心臓病・脳梗塞・顔面麻痺などの疾病に相次いで襲われた。後に体調は回復し、2000年代に入るとテレビ番組などのメディアにも出演するようになった。2007年12月に出版された『蘇る封印歌謡 いったい歌は誰のものなのか』(三才ブックス)の付録CDで、新録音『さすらい』『おもいやり』『エイトマン』を収録。自主制作のカセットテープなどを除けば、凡そ30年ぶりに新音源が全国発売されたことになる。

2013年10月2日、同年2月27日に脳出血により死去していたことが報じられた(日刊スポーツでは「群馬県内で死去」と報じているが、スポニチアネックスでは「栃木県佐野市の病院で死去」と報じている)。75歳没。

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