倉本聰の出身高校
倉本聰 演出家
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倉本 聰(くらもと そう、戸籍上は1935年1月1日(実際は1934年12月31日)- )は、日本の脚本家・劇作家・演出家。本名山谷馨。夫人は女優の平木久子(演劇集団 円所属)。
東京府(現・東京都)出身。父・山谷太郎(1899年 - 1952年)は春潮という俳号を持つ俳人で、『野鳥歳時記』(1943年)を残した。両親はともにクリスチャンだった。
戦時中は山形市上山市や岡山県金光町に疎開。このうち、上山への疎開は政府が実施した学童集団疎開によるもので、都会育ちの倉本は大きなカルチャーショックを受けた。東京に帰りたいと考えた倉本は仮病を使って数か月後には東京に戻ることに成功した。この体験は、『北の国から』の最初の連続シリーズにおいて、純が東京に帰りたがって起こす行動のヒントにしたと記している。 また、金光へは1945年4月から1年間、一家6人で疎開していた。
豊島師範附属小学校(現・東京学芸大学附属小金井小学校)から麻布中学校・高等学校を経て東京大学文学部美学科卒業。
1959年、ニッポン放送に入社し、局では本名でディレクター・プロデューサーとして勤務する傍ら「倉本聰」のペンネームで脚本家としての活動を行なう。『パパ起きてちょうだい』(日本テレビ)が脚本家デビュー作。会社に内緒で脚本活動を行なっており、当時は夜10時に会社を出て帰宅してから脚本を書き午前4時頃に就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった。
1963年にニッポン放送を退社。退社のいきさつについて倉本は、後にインタビューで「ニッポン放送には内緒でペンネームを使って脚本家をやっていた負い目から、ニッポン放送で担当していた番組には(脚本家同士として顔見知りである)若手の脚本家ではなくベテランの脚本家ばかり起用していたが、それを上司に咎められたうえ『最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い』と命じられ、そろそろ潮時だと思った」と語っている。また他のインタビューでは「(2時間睡眠の生活を)2年も続けると「もたない」と思いました」と語っており、掛け持ちを続けるのは体力的にも限界だったことを示している。岡田茂の自伝では、倉本がニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない、と東映に籍を置かせて欲しいと中島貞夫を介して岡田に頼んできたと書かれている。
その後、東京でフリーの脚本家となったが、NHK大河ドラマ『勝海舟』制作に際し、脚本家の演出関与の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中降板。1974年6月、取材を受けた週刊誌『ヤングレディ』の記事がNHKを攻撃する内容に変わっていたので、最終稿まで確認して記事は修正されたが、広告の見出しが「倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言」と修正されぬまま出てしまったことがきっかけだった。当時の制作局長には軽率を謝罪したが、20 - 30人からつるし上げられたという。その日に千歳空港へ飛び、そのまま北海道札幌市に転居。
1977年、富良野市に移住。
1981年、富良野を舞台にした家族ドラマ『北の国から』で話題を呼ぶ。他に歌志内市、上砂川町を舞台とした『昨日、悲別で』の脚本、富良野を舞台に父子の絆の断絶と再生を描く『優しい時間』の原作など、北海道を舞台とした数々のドラマでも有名。
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