保井浩一の出身高校

保井浩一 プロ野球選手

保井浩一卒業高校
龍谷大学付属平安高校 偏差値 京都府高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
2239位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1921年7月19日生まれ

保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 2001年11月17日)は、京都府出身のプロ野球選手・監督。

平安中学から立命館大学専門部法科を経て、中央倉庫、満州電電、京都大丸で活躍。平安高校監督を務め、戦後初の甲子園出場に導いた。1950年に東急フライヤーズに入団した。1年目は内野手として主に一塁・三塁を守った。87試合に出場し、打率.280、9本塁打を放つ活躍を見せる一方、投手としても1試合に登板した。

1951年限りわずか2年で現役を引退したが、1955年には東映の監督に就任。成績を残せず監督は1年で解任されたが、1956年からは監督の岩本義行の下、二軍監督に就任した。1960年、代理監督をつとめていた試合で大毎・山内和弘による振り逃げ4得点という珍記録を引き起こしている。

1961年には大洋ホエールズのコーチとなり、1963年からは大洋ホエールズのスカウト部長の任に着いた。1965年に近鉄バファローズの監督に岩本義行が就任すると、保井もコーチとして移籍した。衣笠祥雄が平安高等学校2年の秋に「今すぐ大洋に来ないか」と誘ったがその時衣笠は全然その気がなかったという。

その後は滋賀県で割烹旅館の経営をした。2001年11月17日、心不全のため死去。享年81(80歳没)。

プロ野球選手偏差値ランキング 職業から有名人の出身卒業高校を探す

プロ野球選手偏差値ランキング

県別高校偏差値

関東

北関東

関西

北海道/東北

甲信越

東海/北陸

中国

四国

九州・沖縄

おすすめコンテンツ

全国高校偏差値ランキング
職業から有名人の出身高校を探す
有名人の名前から高校を探す

全国自治体別高校偏差値ランキング