佐伯貴弘の出身高校
佐伯貴弘 プロ野球選手
- 佐伯貴弘卒業高校
- 尽誠学園高校 偏差値 香川県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 2615位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1970年4月18日生まれ
佐伯 貴弘(さえき たかひろ、1970年4月18日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。2014年シーズンから中日二軍監督(兼打撃コーチ、2014年のみ兼任)を務める。現役時代は横浜と中日で勝負強い中距離打者として活躍した。
中学時代はボーイズリーグの大阪東ジャガーズに所属。尽誠学園高校時代は2年時に第69回全国高等学校野球選手権大会に6番・左翼手で出場し2試合で2安打を記録した。また、高校の1学年先輩に伊良部秀輝(元ロッテほか)が、2学年後輩に谷佳知(現オリックス)がいた。高校卒業後は大阪商業大学へ進学。関西六大学リーグで通算95試合出場し、330打数104安打、打率.315、12本塁打、57打点を記録。1991年に春季と秋季の二季連続でリーグ戦の三冠王になった。同年は日米大学野球選手権大会の日本代表にも選出された。最優秀選手1回、ベストナイン4回受賞。通算12本塁打、1季4本塁打、3試合連続本塁打(2度)はいずれも新制関西六大学リーグ記録である。投手としても対龍谷大学戦で完封勝利を挙げるなど2勝している。
1992年のプロ野球ドラフト会議で横浜ベイスターズが2位指名で交渉権を獲得し契約金7000万円、年俸720万円(金額はいずれも推定)で入団が内定した。横浜はこの年のオフに「ホエールズ」から改称したため、「ベイスターズ」としての初のドラフト指名選手の一人となった。
1993年5月23日の対広島東洋カープ戦に代打で初出場。1994年には初の二桁本塁打を記録。巨人に同期入団した松井秀喜の向こうを張って、自ら松井の愛称「ゴジラ」から由来する「メカコジラ」という愛称を名づけ、ヘルメットにも"MECHA"と書かれたシールを貼り付けていた。
1995年にオールスターゲームにファン投票で初選出される。辞退を考えていたものの、当時巨人に在籍していた落合博満に「お前を純粋に見たいと思って入れた人もいる。出ろ」と言われて出場を決意した。
1996年は開幕スタメン左翼手を勝ち取り、チームの快進撃と相まり、斎藤隆と共に4月の月間MVPに選出される。前半戦は打率ランキングの上位に顔を出し、グレン・ブラッグスがスタメンから外れた時は右翼手として出場しオールスターゲームにも2年連続で出場。しかし後半戦に入り調子を落とすも、見事プロ入り初の規定打席に到達した。
1997年は左翼手にこの年首位打者を獲得した鈴木尚典が不動レギュラーで、右翼手は新外国人ビル・セルビーとの兼用になり出場機会に恵まれず、打率.260、4本塁打という成績に終わる。
1998年は移籍してきた中根仁との併用でマシンガン打線の6番打者として活躍した。38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献した。7月15日の対巨人戦で槙原寛己との打席でライトフライとなった際、槙原がボークをとられたためアウトが取り消しとなったが、その仕切り直しの打席で3ラン本塁打を放った。この試合は当初、7-0で巨人の一方的な展開であったが、この本塁打で12-12の同点となり、この日のサヨナラ勝利を呼び込むきっかけとなった。
1999年も好調を維持。また入団年以来の一塁守備に就く。2000年は成績こそ良くなかったものの、正一塁手の駒田徳広の不調により一塁手での出場が増え、自身2度目の規定打席到達を果たす。
2001年、駒田の退団に伴い、背番号を大学時代にもつけていた10に変更。3回目のオールスターゲーム出場、140試合フル出場を果たし、初の二桁盗塁と打率ランキングベスト10入りを記録した。
2002年、2003年とあまり調子が上がらなかったが、2004年は夏場以降調子を上げていき、最終的にリーグ3位の打率.322を記録するなど自己最高の成績を残した。7月16日の対広島戦でジョン・ベイルから遊撃内野安打で1000本安打達成。9月3日の対ヤクルトスワローズ戦で鎌田祐哉から通算100本塁打を達成。日米野球ではフランシスコ・ロドリゲスから日本人選手では全試合で唯一人本塁打を放った。しかし、シーズン終了後にFA権を行使した場合、球団としては引き留めないという話を球団からされたが、翌年から新しく監督の就任が決まっていた牛島和彦が引き止めて残留した。同年の契約更改ではたくさんの人に来てほしいということから、入場料を安くしてほしいという提案もしている。
2005年はタイロン・ウッズの代替として獲得したケビン・ウィットがインフルエンザで欠場したため、新監督の牛島から開幕から4番打者に指名される。ウィット復帰後もウィットの打撃不振により、結果的に4番打者として全試合出場を果たした。
2006年も引き続き開幕から4番を任されるが極度の打撃不振で打率が2割前後に低迷。それでも4番での起用が続き「4番・佐伯」とコールされると、対戦相手のファンから拍手が起こってしまった。4月28日の対広島戦では決勝点となる逆転3ランを放ちお立ち台に立ったが、それまでの打撃不振から涙を流す一幕もあった。しかしその後も打撃不振は続き、6月になってからは成長を見せていた村田修一に4番の座を明け渡した。9月7日の対広島戦では延長10回・2アウト満塁の場面で佐伯に打順が回ってくるが、カウント2ボール1ストライクからファウルを打った際に捕手の石原慶幸のミットが佐伯のバットに当たった為、打撃妨害となり31年ぶりとなる「サヨナラ打撃妨害」で勝利するという珍事があった。
2007年に初心に返るという意味合いを兼ねて背番号を入団時の26に変更。一塁は吉村裕基が固定されたため、開幕はベンチからのスタートになった。しかし他の選手の不振もあり3年ぶりに外野でスタメン起用されると好調な打撃を見せ5番打者に定着し2年ぶりの規定打席に到達し、二桁本塁打、3年ぶりの打率3割を達成した。
2008年は開幕戦から5番・一塁手で出場するが不振に陥り、好調の内川聖一にポジションを明け渡した。代打での打率は.304を記録し、中盤からは代打の切り札的存在として活躍。意表を突くバントヒットも幾度か成功させるなど代打要員として新たな境地を築いた1年だったが、オフの契約更改では70%ダウンの年俸3000万で更改となった。会見では「税金のこともあるし、これからは缶コーヒー1本買うのにも気をつけなくてはいけない」と冗談を発した。
2009年はダン・ジョンソンが一塁で起用されていたため、前年に続いて主に代打の切り札として使われていたが、ジョンソンの不振により交流戦以降は一塁で出ることが多くなった。7月15日には3年ぶりの盗塁をホームスチールで飾り、横浜の2年ぶりの4連勝を演出した。8月9日の対中日戦では中田賢一から通算150本塁打を達成。規定打席には届かなかったが、代打の切り札から5番・一塁のレギュラーに復帰し、2年ぶりの100試合出場・二桁本塁打を記録した。
2010年は10試合の出場にとどまり、9月10日に球団側から戦力外通告を受けた。直後に韓国球団からコーチ兼任で契約の打診はあったが、それを断り中日ドラゴンズへ移籍した。
2011年は開幕から代打で起用されるも1か月以上が経過して13打数0安打と結果が残せなかったが、5月20日の対西武戦で移籍後初のスタメン出場を果たし、逆転2点適時打を含む4安打を打ちチームの逆転勝利に貢献した。41歳としての4安打は球団史上初の記録であった。また、この年には当時の球団の三塁打及び本塁打の最年長記録を更新した(後に、山崎武司がこの記録を更新)。しかし、打率.202、1本塁打、6打点に終わるなどシーズンを通しての活躍はできず、11月11日に前年に続き二度目の戦力外通告を受けたが、その後もソフトバンクとの日本シリーズ終了まではチームに帯同した。12月2日に自由契約公示された。
中日を自由契約となった後はプロ・アマ含めいずれのチームとの契約はなかったものの、テレビ番組に出演した際に「引退ではない」と語るなど、現役続行の道を模索して浪人生活を続けていた。
中日退団から1年近く経った2012年10月にロッテから入団テストのオファーを受け、11月の秋季キャンプにおいてテストを受けたものの不合格に終わる。その後、同21日の12球団合同トライアウト(鎌ケ谷・ファイターズスタジアム)にも参加したが、どの球団からも獲得のオファーがなく2013年2月3日に現役引退を発表した。引退にあたり、「結果には後悔ばかりだが、結果を残すためにやってきたことに後悔はない」とのコメントを残している。
2014年より、現役時代の同僚だった新監督の谷繁元信の要請で、中日二軍の監督兼打撃コーチを務める。2015年からは二軍監督専任となった。
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