佐々木七恵の出身高校
佐々木七恵 オリンピックメダリスト
- 佐々木七恵卒業高校
- 住田高校 偏差値 岩手県高校偏差値ランキング
- オリンピックメダリストランキング
- 30位 / 31人中 オリンピックメダリスト別偏差値ランキング
- 性別
- 女性
佐々木 七恵(ささき ななえ、本名:永田 七恵、1956年2月8日 - 2009年6月27日)は昭和時代に活躍した女子陸上競技(主に長距離走・マラソン)選手である。1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン日本代表。
岩手県大船渡市出身。岩手県立住田高等学校、日本体育大学卒業。大卒後は教育職を経て、瀬古利彦らがいたヱスビー食品に所属。増田明美らと共に、初期の日本女子マラソン界を代表する選手の1人だった。
5男2女の7人兄弟の末娘として生まれたことから七恵と命名される。中学時代はバレーボール部に所属し、住田高時代から兄の影響で陸上競技を始める。日体大時代までは中距離の選手としてインカレ等で活躍し、大学卒業後マラソンに進む。1979年11月に始まった第1回大会の東京国際女子マラソンが初マラソン。その後徐々に記録を伸ばし、日本の第一人者と言われるようになる。
当時、七恵は岩手県で県立学校(岩手県立盲学校→岩手県立盛岡第一高等学校)の教員をしていたがさらなる記録向上をめざし学休期に上京しては、瀬古利彦の師である中村清の指導を受けるようになる。その甲斐あって、1981年4月のボストンマラソンでは日本最高記録を樹立した。しかし、その直後日本で出場したトラックレースで成田高校の在学生であった増田明美に何度も水をあけられて衝撃を受ける。これをきっかけに中村の指導をさらに熱心に受けるようになった。
中村の指導は厳しいものであったが、まもなく成果が現れる。1982年5月のスポニチ陸上5000mでは初めて増田を破って優勝。6月にはニュージーランドのクライストチャーチマラソンで再び日本最高記録を樹立し、2月に増田に奪われた首位の座を奪い返した。自信を付けた佐々木は、2年後の1984年8月に開催されるロサンゼルスオリンピック女子マラソン代表をめざし、陸上競技に本格的に取り組む決意を固め、1982年7月7日付で教員を辞職し、中村のいるヱスビー食品陸上部に入部した。
1983年11月の東京国際女子マラソンに、ロサンゼルス五輪の女子マラソン代表(このロス五輪から女子マラソンが正式種目となる)をめざして出場。このレースには9月に再び日本最高記録を出した増田明美もエントリーしており、マラソンでの2人の初対決が期待されたが増田は直前に足を痛めて欠場した。七恵は先頭に食い下がる我慢のレースからスパートをかけて、結果国内の国際女子マラソン大会で日本人としても初優勝を果たし、念願だったロス五輪代表の座をつかんだ(その後増田も大阪女子マラソンに出走し2位となり、2人が女子マラソン五輪代表となる)。その走り方には、同年ヒットした連続テレビ小説にちなんで「おしん走法」のあだ名も付けられていた。
1984年1月の全国都道府県対抗女子駅伝に岩手県チームのアンカーで出場、実に17人抜きを演じる。この記録は2007年1月、愛知県チームの2区で出場した湯田友美が29人抜き(17人抜き以上が湯田の他に3人いた)を演じるまで23年間破られることはなかった。
現役引退後、2人の子供をもうけた。
1991年から古巣のヱスビー食品陸上部のコーチ、1996年から顧問を務めた。また1999年から2003年まで、居住する神奈川県相模原市の教育委員を務めた。
郷里の大船渡市では、彼女の業績を称える市民ロードレース「大船渡ポートサイド女子マラソン大会」が1988年以降毎年開催されている。
2009年6月27日、直腸がんのために死去。享年54(満53歳)だった。彼女の早過ぎる死に、ヱスビー食品のチームメートだった瀬古利彦は「26歳で安定した仕事を捨てて来たこと自体に驚いた。覚悟が伝わった」「まだ若いのに…残念」、同じロス五輪女子マラソンの日本代表だった増田明美は「レース中に七恵さんに抜かれたことが一番悔しかった」「思い出話に花を咲かせる機会が増えるだろうと楽しみにしていただけに、大変悲しい気持ち」と、それぞれ追悼のコメントを述べていた。
尚、佐々木七恵の葬儀は身内のみで行われた為、元の所属先だったヱスビー食品の江戸龍太郎社長らが発起人となって、同年9月29日に「お別れの会」を執り行った。
大船渡市立日頃市小学校 - 大船渡市立日頃市中学校 - 住田高 - 日体大
オリンピックメダリスト偏差値ランキング
職業から有名人の出身卒業高校を探す
オリンピックメダリスト偏差値ランキング