井原正巳の出身高校
井原正巳 プロサッカー選手
- 井原正巳卒業高校
- 守山高校 偏差値 滋賀県高校偏差値ランキング
- プロサッカー選手ランキング
- 62位 / 814人中 プロサッカー選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1967年9月18日生まれ
井原 正巳(いはら まさみ、1967年9月18日 - )は、滋賀県甲賀郡水口町(現甲賀市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。1990年代の日本サッカー界を代表するディフェンダーで「アジアの壁」と呼ばれ、1998 FIFAワールドカップにも出場した。家族は妻(1993年結婚)、第1子(男子、2006年出生)、愛犬(ゴールデン・レトリバー)。
サッカー日本代表のA代表CAP数122は歴代2位である。
水口町立貴生川小学校(現:甲賀市立貴生川小学校)でサッカーを始め、滋賀県立守山高等学校時代はフォワードであった。高校卒業後は筑波大学へ進学して蹴球部に所属。大学1年時に当時のユース代表監督であった松本育夫の勧めでディフェンダーに転向した。高校時代の経験が、後の「日本のリベロ」の下地を作ったといわれる。大学2年時に初めて日本代表に選出された。
大学時代、当時ディフェンダーだった中山雅史とセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務め、アルバイトも同じ所でするなど公私共に仲が良かった。 大学卒業後は日産自動車サッカー部(現:横浜F・マリノス)に入部、一時はボランチも経験したが、ディフェンダーとしてプレーし、1993年Jリーグ開幕節 (5月15日) のヴェルディ川崎戦にも出場した。
Jリーグのオウンゴール第1号を記録した。
ワールドカップへの挑戦は3回。1990 FIFAワールドカップ・アジア予選に始まり、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選ではあと一歩のところでW杯出場権を逃す「ドーハの悲劇」を経験。1998 FIFAワールドカップ・アジア予選でイラン代表との第3代表決定戦を制し、日本のW杯初出場へ導いた。
前身の日産時代から10シーズンをマリノスでプレーし「ミスターマリノス」とまで言われたが、現役選手としての活動にこだわり横浜FMの世代交代策によるコーチ就任要請を蹴って、2000年にジュビロ磐田へ移籍。更に2001年からは浦和レッドダイヤモンズにも在籍した。同年行われた2002年W杯1次リーグの組み合わせ抽選会ではアジア代表としてドロワーを務めているが、この時「ミッドフィールダー」と紹介された。
2002年、チームメイトの福田正博と共に現役を引退した。Jリーグ通算297試合、5得点。
引退後はNHKサッカー解説、TBSラジオ番組『スポーツBOMBER!』パーソナリティー(2003年度から下半期・木曜日担当)、日本サッカー協会認定のJFAアンバサダー、びわこ成蹊スポーツ大学客員教授、公共広告機構(現:ACジャパン)・骨髄バンクCMなど各方面で活躍するかたわら、S級ライセンスを取得し指導者の道を歩んでいる。日本各地の少年サッカー教室に参加するなどサッカーの普及にも力を注いでいる。2005年には洪明甫と共に日韓親善大使に選ばれた。2006年4月にJFA 公認S級コーチのライセンスを取得した。
2009年2月、柏レイソルのヘッドコーチに就任。同年7月、監督の高橋真一郎が解任され、後任監督が決定するまでの代行監督を務めた。2013年にはシーズン中に監督の辞意を表明したネルシーニョに代わって天皇杯の1試合指揮をとった(その後ネルシーニョは辞意を撤回)。2014年限りで柏との契約を満了し退任。
2015年よりアビスパ福岡の監督を務める。 最終的には2位磐田と並ぶ勝ち点82の成績を収めたが、得失点差により順位は3位となりJ1自動昇格は叶わず、J1昇格プレーオフに回ることとなった。 そのプレーオフの決勝戦において、4位のセレッソ大阪と1-1で引き分けたことで、年間順位で上回ったチームを5年ぶりのJ1の舞台に導いた。
その他の公式戦
イングランド代表戦(アンブロカップ)
井原正巳の関連人物
プロサッカー選手偏差値ランキング
職業から有名人の出身卒業高校を探す
プロサッカー選手偏差値ランキング