二井原実の出身高校
二井原実 ミュージシャン
- 二井原実卒業高校
- 上宮高校 偏差値 大阪府高校偏差値ランキング
- ミュージシャンランキング
- 365位 / 829人中 ミュージシャン別偏差値ランキング
- 生年月日
- 1960年3月12日生まれ
1960年3月12日大阪府大阪市住吉区南住吉生まれ。家族構成は、父(広島県呉市出身)、母(島根県隠岐郡出身)、姉、弟(CHRIST、gerden of soulのドラマー、二井原教仁 にいはらのりよし)。幼少時に小児ぜんそくを患っており(現在は完治)その事もあってか性格は内向的でおとなしく、いつも母親の後を付いて回るような気弱な子供であったが、小学校に上がった頃に始めた剣道の成果も相俟って、持病が回復傾向に向かうや徐々に明るく陽気な一面を発揮し始める。そして中学校に入学すると、家族やクラスメイトの影響からスリーピー・ジョン・エスティスやステファン・グロスマンといったリズム・アンド・ブルースやビートルズに興味を持ち出すが、そんな折り友人から「バンドやろうや、おまえ(二井原)はポール・マッカートニーな(ベース担当の意)。」と半ば強引にバンドに誘われたこと、そして祖母に頼み込んでベース・ギターを買ってもらったことによって、二井原の音楽人生はスタートした。
1975年、上宮高校に入学すると軽音楽クラブに入り、そこで知り合った同級生の石原愼一郎らと共にハードロックバンド、EARTHSHAKER(アースシェイカー)を結成。当初はベーシストとしてのみの参加であったが、結成時のボーカルが1年ほどでバンドから脱退してしまった為、それ以降ボーカルも兼任することになる。しばらくはボーカリストとしてよりもベーシストとしてのプレイに重点を置いて活動していたが、周りの反応から少しづつ自分の歌声の特異性に気付き始め、またそんな折に出場したヤマハ楽器主催のアマチュアバンドコンテスト「バンド合戦」において、審査委員であったソー・バット・レビューの石田長生に、「いや~自分、珍しい声してんなぁ・・ほんまおもろい声してんでぇ・・」と褒められたことで、次第に本格的なボーカリストを目指すようになる。そして、このコンテストに優勝したことによってアースシェイカーは、当時関西で人気絶頂であったアマチュアバンド、「山水館」や「シェラザード」のイベントの前座に起用されるようになるが、そんなバンドの勢いとは逆行するように、大学進学を境にして二井原自身の趣向はハードロックよりもリズム・アンド・ブルースやソウル・ミュージックの方へと原点回帰していき、大学2年時の1979年には「ハードロックはもうやらない」と言う理由でアースシェイカーから脱退、並行して在籍していた京都のR&Bバンド「Soul-Doo-Out」(同時期に渡辺大之伸も参加)の活動に精力を傾注することで、ハードロック・ボーカリストからソウル・シンガーへとシフトチェンジしていった(この時期にムード歌謡グループ「ニック・ニューサ」のヒット曲「サチコ」のレコーディングにコーラスとして参加している)。なお、「ハードロックはやらない」発言の裏には、プロ志向が強かった石原に対して、当時はまだ自身の力量に自信をもてずにいた二井原が、プロを目指すことに二の足を踏んでいたという事情があったものの、この事により二人はしばらくの間、絶縁状態となる。
一方、佛教大学軽音楽部では同級生の藤村幸宏らとファンクバンド「青春会」を結成し、「ITACHI(後にメジャーデビューする「TOPS」の前身バンド)」などと共に京都では有名なファンクソウルバンドとして活動していたが、迎えた1980年(大学3年時)の秋、自身のソロアルバム制作のため「世界に通用できるような強力なボーカルをさがして」いたレイジーのギタリスト・高崎晃が、アースシェイカー時代の二井原の歌声を聴いて興味を持ち、オーディションへの参加依頼を打診する (ちなみにこの時、高崎にアースシェイカーのライブテープを送り熱心に二井原を推薦していたのが、後にベーシストとしてラウドネスで盟友となる山下昌良であった )。そしてそのオーディションに見事合格すると明けて1981年3月、高崎とドラマーの樋口宗孝の薦めにより、大学を一時休学(のちに除籍)して上京(二井原曰く「移動手段は格安の深夜の高速バスで、所持金は5000円札1枚のみ」だったとの事。)。しかし、高崎と樋口はまだレイジーとしての活動があり、差し当たって高崎のソロ・プロジェクトからバンドにするということだけは決まったものの、それ以外は所属するマネージメント・オフィスやレコード会社はおろかバンド名すら決まっておらず、二井原が加入した直後の数ヶ月間は完全に宙ぶらりんな状態であったという。 また、上京後の数か月間は樋口のマンションに居候させてもらい、共同生活をしていた。
しかし同年5月末をもってレイジーが解散、一段落したのを機に8月には三重県鈴鹿市のチェスナットスタジオに於いてデビューアルバムのレコーディングを開始、バンドの名前がLOUDNESS(ラウドネス)に決定したのもこの頃である。 そして、ラウドネスは同年11月25日にコロムビア・レコードよりデビューを果たす(ラウドネス関連についてはLOUDNESSの項目参照)。
1988年12月、ラウドネスを脱退。これは当初「音楽の方向性の違いから自発的に脱退」と各メディアで報じられ、ファンのみならず関係者にも大きな衝撃を与えたが、後年になって「実際には自主的な脱退などではなく、一方的な解雇であった」事が二井原自身の口から語られている。
翌1989年早々に「当面はソロのシンガーとして活動する」事を宣言。6月にはファーストアルバム「ONE」をリリースし、中間英明、宮脇知史、藤村幸宏らを従えてツアーを開始。
1990年、藤村幸宏(G)、永井敏己(B)、菅沼孝三(Dr)と言ったテクニカル・プレイヤーらと共に「DED CHAPLIN(デッド・チャップリン)」を結成(デッド・チャップリン関連についてはデッド・チャップリンの項目参照)。
1994年、石原愼一郎(G)、寺沢功一(B)、樋口宗孝(Dr)と共に「SLY(スライ)」を結成(SLY関連についてはSLYの項目参照)。
1999年、SLYの活動が休止したのを機に、当時傾倒していたヒーリングミュージックへの移行を考えていたが、この相談を受けたファンキー末吉が猛反発。末吉から「誰もおまえのそんな(ヒーリングミュージックを歌う)姿なんて望んでない!」「おまえをもう一回、ロックの世界に引き戻してやる!」と強く説得され、ファンキー末吉(Dr)、橘高文彦(G)、和佐田達彦(B)と共に「X.Y.Z.→A(エックス・ワイ・ズィー・トゥ・エー)、結成当初のバンド名は「X.Y.Z.」」を結成する(X.Y.Z.→A関連についてはX.Y.Z.→Aの項目参照)。
2000年、オリジナルメンバーの再集結に伴い、ラウドネスに復帰。
2006年、17年振りのソロアルバム『Ashes to Glory』をリリース。ラジオ番組「Heavy Metal Syndicate」の宛て先ジングルでお馴染みの全盲と言うハンデを背負うテクニカルギタリスト、田川ヒロアキのプロデュース兼ギタリストとしての参加が話題となった。
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