中谷仁の出身高校

中谷仁 プロ野球選手

中谷仁卒業高校
智辯学園和歌山高校 偏差値 和歌山県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
31位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1979年5月5日生まれ

中谷 仁(なかたに じん、1979年5月5日 - )は、日本の元プロ野球選手(捕手)。

和歌山県和歌山市出身。小学校低学年のころ太ってきたために地元の少年野球チーム「有功少年野球クラブ」に連れて行かれたことから野球を始めた。同チームの2年上には後にチームメイトとなった前田忠節がいた。

和歌山市立有功中学校に入学。この頃はヤクルトスワローズ全盛期で、監督である野村克也、古田敦也の影響で捕手の面白さにはまっていった。

智辯学園和歌山高等学校(智弁和歌山高校)に入学後、正捕手として甲子園大会に3度出場する。1996年の第68回選抜高等学校野球大会で準優勝。1997年の第79回全国高等学校野球選手権大会では主将としてチームを引っ張り、優勝に貢献した。同大会では打率.563を記録。チームメイトには高塚信幸や喜多隆志がいた。高校通算21本塁打を記録。

1997年秋のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受けて入団。同期に井川慶、坪井智哉がいる。

2年目のシーズンとなる1999年春、一軍主戦捕手の一人であった山田勝彦とは相性がよくなかった井川をウエスタン・リーグで連続完投勝利させる。将来の正捕手候補として期待されていたが、他人の投げた携帯電話が左目を直撃して視力が大きく低下(投げた相手としてメディアによって記述が異なり、「友人」、または「ある同僚選手」「ある投手」とされている)。失明寸前となって、選手生命の危機に陥る。しかし、その後地道な練習が実り、実戦に支障が出ないまでに回復している。

2002年、プロ入り5年目にして初の一軍昇格、正捕手矢野輝弘の骨折などもあり出場機会に恵まれ初安打・初打点を記録した。打撃成績こそ振るわなかったものの、リード面での評価は高く、また安定したフィールディングを見せた中谷に期待を寄せる向きもあった。

だが、2003年は、野口寿浩の加入によって控え捕手の層が厚くなり、再び二軍に定着、終盤に一軍登録されたものの出場機会がなかった。

2004年は、岡田彰布監督体制で若手捕手は狩野恵輔を育てる方針に切り替わり一軍登録されることはなかった。

2005年も一軍登録されることはなく、オフに金銭トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。

2006年は8試合に出場。二軍では29試合に出場。秋にはフェニックスリーグに参加した。

2007年は怪我で出遅れ、更にルーキー嶋基宏の抜擢など一軍試合出場は無く、二軍でも内野も守るなど出場機会が減った。

2008年も引き続き怪我の治療に始まり復帰は7月にずれこむも、一軍候補の若手捕手が次々と脱落して行く中で秋口にようやく一軍登録され再評価を受ける。秋季キャンプでも教育リーグ行きを免除されベテラン格の扱いを受けた。

2009年6月21日、対阪神戦に代打で出場し、能見篤史から12年目のプロ初本塁打となる2ランを放つ。この一打が一軍残留の決め手となり、守備機会を与えられ徐々に信頼を得ると、永井怜からパートナー指名を受けるなど出場機会を増やしていった。後半戦は、主戦捕手だった嶋に代わり中谷が起用されるようになった。当時監督の野村克也が「学校の成績と野球頭脳は別」と説き、中谷の野球頭脳を高評価した。打撃は当初は振るわなかったが、8月頃からバッティングフォームをバスター打法に変えるなど試行錯誤を重ねて徐々に一軍投手のレベルに対応し始め、9月26日の対西武戦(西武ドーム)で岸孝之から7番セギノール、8番リンデン、9番中谷の球団初となる3者連続本塁打を記録。このシーズンは自己最多の55試合に出場し、楽天初の2位決定、そしてクライマックスシリーズ進出に貢献。クライマックスシリーズでは、4試合でスタメンマスクを被り、打率は.333だった。

2010年はシーズン序盤に肉離れを起こして離脱。マーティ・ブラウンが監督となり、若手捕手を起用する采配に変わったため怪我が治ってもなかなか一軍に復帰できず、わずか11試合の出場に留まった。

2011年は、2003年以来再び星野仙一のもとでプレーすることとなったが、やはり打撃力の弱さを問われ、若手重点起用となり後半は一軍登録の機会はなかった。シーズン終了後は教育リーグに派遣されたが、2011年11月11日、戦力外通告を受け、12月2日に自由契約公示された。楽天球団は球団スタッフとしての残留を打診したが中谷は現役続行を決断し11月24日に行われた合同トライアウトを受験。その日の帰路、守備力を見込んだ読売ジャイアンツ(巨人)からオファーを受け、12月6日、入団することが発表された。

2012年、巨人に移籍したものの正捕手は阿部慎之助、2番手捕手は實松一成とほぼ固定されていたため、中谷は4月15日より8月月初まで一軍登録はされていたものの、出場機会は5試合にとどまった。7月31日の対中日戦で、9回表から捕手の守備を1回こなしたのが、一軍最後の出場となった。しかしムードメーカーとしてベンチを盛り上げナインや番記者達からは親しまれた。また、二軍では高卒ルーキー、今村信貴のノーヒットノーランをアシストするなど、若手育成面での評価を受けた。プロ15年目にしてはじめての優勝のビール掛け参加を経て、10月4日、現役引退を表明。ナインとの別れの際、監督の原辰徳は「中谷という野球人は非常に印象深い。彼がスコアブックに残らない面で残していったものを我々は受け継いでいかねばならない」と労った。同日、任意引退公示された。

2013年1月に、巨人のブルペン捕手になる事が発表された。第3回WBCには原監督の推薦を受け日本代表のブルペン捕手として参加した。2013年シーズンをもってチームを退団する。

巨人を退団後、一旦は阪神から裏方として声がかかったが敢えてそれを断り、2014年1月より中学時代から交流のある手塚一志が主宰する私設野球教室のスタッフとなる。

愛称は「じん」「じゃが」。

少年野球で捕手を始めたきっかけは、太っていたことから練習がしんどく、すぐにしゃがみたくなる習性があったため。

阪神同期入団の井川慶は「中谷くんと"21世紀の黄金バッテリー"になれるようにしたい」と述べている。2006年交流戦前に井川が「交流戦で対戦したい相手は?」の問いに中谷の名前を真っ先に挙げている。

楽天時代、仲の良い選手は阪神時代にもチームメートだったことがある山村宏樹だった。阪神の中では、兄貴として慕っている赤星憲広と、金澤健人。移籍が決まった時には、餞別として赤星から直筆メッセージ入りのグローブをもらった。

尊敬している人は「僕を一人で育ててくれた母」。また、失明寸前で走ることさえできなかったころ、「野球ができなくても、生きてたらええやん」と母から言葉をもらって救われたと、楽天移籍後のインタビューで答えている。

2002年の終盤、阪神の一軍捕手はベテラン山田勝彦と、浅井良・中谷の23才コンビだったが次第に山田メインになっていった。その頃、記者陣に「チョンボの目立つ山田よりも若手を抜擢して経験を積ませた方がいいのではないか?」と聞かれた当時の星野監督は「いや、投手陣に『捕手は誰が受けて欲しいか』と聞いたら皆、山田がいいと答えるんだよ」と答えていた。そうしたことも相まって、中谷は「投手陣に信頼されるような捕手でありたい」とコメントしている。その当時の山田、浅井、中谷の捕手トリオの合言葉は「藤川球児と藤田太陽にプロ初勝利をあげさせてやろう」であった。

2006年4月5日に「野球仁〜中谷仁ブログ」を開設。ブログではファンにプレゼントを企画したり、ファンが教えてくれた店(ホルモン屋)には全部行くと書くなどファンと交流をしていたが、2008年2月4日をもって更新を停止した。

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