中島らもの出身高校

中島らも ライター

中島らも卒業高校
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性別
男性
生年月日
1952年4月3日生まれ

中島 らも(なかじま らも、1952年4月3日 - 2004年7月26日)は、兵庫県尼崎市出身の小説家、戯曲家、随筆家、俳優、コピーライター、広告プランナー、ミュージシャン。笑殺軍団リリパットアーミー主宰、自主的団体「全国まずいもの連盟」会長。本名は中島 裕之(なかじま ゆうし)。「らも」というペンネームの由来は、無声映画時代の剣戟俳優、羅門光三郎から。当初は「羅門」「Ramon」「らもん」等のペンネームで雑誌に詩の投稿をしており、仲間内でも「らもん」を名乗っていたが「読者に名前を覚えてもらいやすいように」と現ペンネームに改名した。本稿では原則として「らも」で表記する。一男一女の父で、長女は作家の中島さなえ。

兵庫県尼崎市の国鉄(現JR西日本)立花駅近くで開業歯科医をしていた父親の次男として生を受ける。

尼崎市立七松小学校に入学。10歳の時、母親の勧めで神戸市立本山第一小学校に転入。友人からの遊びの誘いを断って偉人伝を読む子供だった。

名門進学校の灘中学校に、8位の成績で合格。ある教師の一言から自分を取り巻いている環境に幻滅し、母親に言いなりの「お勉強ロボット」になっていたことに気付いたらもは、灘中学校から灘高校在学中にかけ、飲酒や薬物、窃盗、ギター、バンド活動(バンド名“ごねさらせ”)、スナックのバンドマン、深夜ラジオ、貸本、山田風太郎、白土三平、漫画投稿、自慰に没頭して成績が急降下。『月刊漫画ガロ』の新人マンガ賞に入賞するが、「長いのでページ数を半分にしてくれ」と言われ根が尽き、漫画家になることを諦める。授業もテストも受けずに番外で灘高校を卒業。

神戸YMCA予備校の予備校生となるも同校に顔を出したのは数回で、パチンコ店やジャズ喫茶へと足繁く通うようになり、喫茶店にたむろしていたフーテン仲間と共に揮発剤、鎮静薬、睡眠薬、大麻、アルコールに耽溺。文学論、思想について雑談するなどして過ごす。

一年間のフーテン生活の後、大阪芸術大学芸術学部放送学科に入学。授業にあまり出なかったので友達はほとんどおらず、何もせず時間を潰していたという。1971年、神戸三宮のジャズ喫茶で、神戸山手女子短期大学の学生だった長谷部美代子と知り合い、4年間の交際の末、1975年に結婚。2LDKのアパートで新婚生活をスタートさせ、翌年4月に長男が誕生。らもは学生と主夫の兼業をこなし、1976年に大学を卒業。卒業論文は「放送倫理規定について」であった。

この頃から急に饒舌になったかと思うと、翌日には寡黙になったりと不安定な部分があった。大学時代は高校在籍時から伸ばした髪が、腰まで届くほどの長髪になる。この頃は仲間とたむろして遊んでいたり楽しいこともあったのだが、将来に対する不安から、大学生活は記憶が抜け落ちているとエッセイで述べている。

卒業間際になっても就職活動をせず、慌しくなる周囲を傍観しているだけであり、見かねた公認会計士の叔父の紹介により、印刷会社の株式会社大津屋にコネ就職、同社で5年間勤める。

就職後は数ヶ月で仕事のシステムを覚え、広告の制作・営業を担当。新規開拓の飛び込み営業、受発注、校正、見積もり、不渡り手形の回収、差し押さえ、印刷ミスによる謝罪と何でもこなした。受け持った得意先は建築会社やボイラー会社などであった。

酒が強かったらもは、親の跡目を継いだ二代目社長に新地やミナミにお供として連れられ、日付が変わってから帰宅というのはザラであった。ある日、酒の席で社長が得意先の社員の頭を太鼓に見立てて叩いたのを見たらもは、「あんな奴でも社長になれるんや」と夫人にボヤき、会社で上司が経理の女子社員に握り屁を嗅がせ、泣かせたのを見て「この会社は長くない」と感じ、知り合いと一緒に雑誌『宣伝会議』主催のコピーライター養成講座に通い、藤島克彦と出会う。1977年、宝塚市に月2万7千円の30年ローンで一戸建の家を建てる。1978年、二人目の子供(長女)を授かる。

1980年、「パンクで一発、当てるつもりで」ロックバンド・PISSを結成、大津屋を退職。「中島が暇らしい」と宝塚の自宅は友人知人の他に自称ミュージシャン、パンクス、スキゾ、フーテン、ジャンキー、山師、グルーピー、不良外国人のたまり場となり、学生時代の薬物遊びが再燃。知り合いの医師から処方箋を入手してハイミナールを集めたり、酒やコデインを飲んでヨタ話をしギターを弾いたり、夫婦で居候達と性交渉をして過ごす。この家は外国人バックパッカーらの間でドラッグが回ってくる家として口コミで広がり「ヘルハウス」と渾名される。ただこの頃のらもはマリファナなど違法薬物の持ち込みには厳しく、持ち込んだ者に対して「家族を巻き込むな!」と叱責している。仲間からレコーディング費用を集めるも、レコーディング直前に費用を女に騙し取られたため頓挫。

一ヶ月の累計宿泊者が100人を超えた時もあり、汲み取り式便所の汲み取り口から排泄物が溢れそうになったり、顔にドーランを塗って夜の道路を徘徊したり、猫に睡眠薬を飲ませたら翌朝、飼っていたウサギが首だけになっていたといったエピソードが残っている。この時の生活は、2000年に出版された自伝的な小説「バンド・オブ・ザ・ナイト」の元になった。1981年、らもは藤島克彦の紹介で広告代理店の日広エージェンシーに再就職。

日広エージェンシーは社長の宮前賢一と経理の女性、それに企画課長のらもの3人しかいない会社で、宮前はらもを夜の繁華街に連れ出して飲み歩かせるも、勤務に対しては放任。らもは社長から「仁義の切り方」を学ぶが、あまりにも仕事が暇なため、次の電柱まで歩く気力が無くなり「これはうつ病だ」と直感、最寄の精神科に飛び込み、渋る医師を説得してリタリンを処方してもらうことで寛解。離人症気味になり、東京月島にある支所(アパートの一室)で仕事。

かねてつ食品(現・カネテツデリカフーズ)をスポンサーに1982年、雑誌『宝島』に同社の広告として『啓蒙かまぼこ新聞』を企画。翌1983年の『微笑家族』(『プレイガイドジャーナル』掲載)と合わせて、広告に不信感を持つ層を敢えてターゲットとし、スポンサーと読者=消費者が一緒になって広告上での遊びを通じてスポンサーに対する関心を持ってもらうという独特の方法で注目を浴びる。

テレビのあまりの下らなさに激怒したらもはコピーライターとして書き溜めていたプレゼンを「成仏させるため」にコント用に書き直しテレビ番組「どんぶり5656」がスタート。また知人の関係する舞台のあまりの下らなさに激怒して、「笑殺軍団リリパットアーミー」を、キッチュ(現・松尾貴史)、鮫肌文殊、若木え芙(現・わかぎゑふ)、ガンジー石原、ひさうちみちおらと結成、脚本執筆のほか、自ら役者もこなした。

1984年から朝日新聞大阪本社版日曜版「若い広場」で、独特のユーモアを交えた人生相談コーナー『明るい悩み相談室』連載が始まる。

1987年、独立を申し出たらもに宮前は快諾を与え、日広エージェンシーを退社。フリーの身となってから有限会社中島らも事務所を設立し作家活動を本格化、宝塚の自宅には全く帰らなくなり、事務所で寝泊りするようになる。戯曲、エッセイ、小説、落語、バラエティ番組の脚本やコントなど、多数執筆。その「ひねくれたユーモア感覚」で、「関西独特のおかしさ」や「市井の奇人や奇現象」などを描き、多くの読者、ファンを獲得。元来、責任感が強い上に営業マン時代のクセで依頼された仕事を片っ端から引き受けていたらもは「仕事を断る仕事」として女性を電話番に雇う。

多忙な人気作家となるも、飲酒がもたらす酩酊から着想を得ていたらもは連続飲酒を繰り返すようになる。アルコール依存を自覚していたらもは観念して病院に入院。後にこの体験を基に、小説『今夜、すべてのバーで』を書いている。

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