上村春樹の出身高校
上村春樹 スポーツ選手
- 上村春樹卒業高校
- 八代東高校 偏差値 熊本県高校偏差値ランキング
- スポーツ選手ランキング
- 2141位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1951年2月14日生まれ
上村 春樹(うえむら はるき、1951年2月14日 - )は、日本の男性柔道家。熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身。1976年のモントリオールオリンピックの柔道無差別級金メダリスト。段位は九段。現在は第5代講道館館長(2009年4月 - )、全日本柔道連盟会長(2009年4月 - 2013年8月)、国際柔道連盟指名理事(2007年9月 - 2013年8月、2015年8月 - )。
生来より運動神経が鈍く、中学校(小川町立益南中学校)時代は100mを20秒で走り、懸垂や逆上がりは一度も出来なかったとのこと。柔道も県大会にすら出場できなかった。
高校(熊本県立八代東高)に入学すると、後に上村自身が“世界を目指せたきっかけの1つ”と語る、柔道師範と出会う。ここで基礎体力を作り上げた事に加え、この師範は目が不自由であったため「音で知る技の良し悪し」を学ぶ事となる。インターハイには出られなかったが、1968年、高校3年生で出場した国体(福井県)で優勝すると、明治大学の柔道部監督をしていた神永昭夫から、同大学を受けるように言われる。
明治大学入学後、初試合となった東京学生体重別選手権で同期の川口孝夫らが優勝する中、上村は初戦で絞め落とされて敗れる。会場の隅で、諦めて熊本へ帰る決断をしていた上村は、神永から「人並みにやったなら人並みにしかならない、素質の無いものは2倍,3倍やらないとチャンピオンになれない」と言われ、帰郷を思い留まる。以降、人より長く練習するうちに、“ザ・ガードマン”とあだ名されるほど受けが強く、また神永の技の指導の下で頭角を現し、大学4年次にはレギュラー・ポイントゲッターとなった。同年、全日本学生選手権と世界学生選手権で優勝した。
大学卒業後、世界を目指すには東京か大阪にいるのが常識だったこの時代に、周囲の反対を押し切り旭化成柔道部(宮崎県延岡市)に入部。1973年、出場した全日本選手権優勝。上村本人は抽選の悪戯によるマグレとコメントしている。しかし翌1974年は、永くライバルと呼ばれる遠藤純男(警視庁)に敗れ、ベスト8止まり。この際に“上村は終わった”と表現されたのが悔しくて、それまでの前か後ろに投げる技だけでなく、横へ崩す技・横へ投げる技を鍛え上げる。1975年の全日本選手権では、決勝で高木長之助を破り2度目の優勝。
1973年10月には世界選手権無差別に出場して決勝まで進むも、二宮和弘に敗れ2位に終わる。1975年10月の世界選手権に無差別で出場した上村は、準決勝でショータ・チョチョシビリ(当時ソ連代表)と当たった。上村は体ごと放り投げられ、頭を打って気絶したが、上村の体重が軽すぎた(当時100kg)ため、勢い余ったチョチョシビリも頭を打ち気絶してしまった。上村の体が運よくがチョチョシビリの体の上に落ちたため、そのまま押さえ込みとなり、一本勝ちした。続く決勝では前回大会で敗れた二宮和弘を判定で破り、世界選手権での初優勝を遂げた。
1975年に2度目の全日本優勝を飾った上村であったが、準決勝で当たった同郷・熊本出身の高校生(この時は全日本選手権初出場)に才能を感じ、その後1年間、その選手対策として捨て身の小内刈(いわゆる小内捲込)を練習した。翌1976年の全日本選手権では遠藤に敗れ優勝こそならなかったものの、東海大学1年生となった同郷の後輩である山下泰裕には準決勝で小内捲込により優勢勝ちし、モントリオールオリンピックの代表権を獲得した。
オリンピックでは、初戦で自分より身長が約40 cm高い選手を大内刈りで破ると、準決勝で上記のチョチョシビリの技を巧みに封じて技を掛け続け優勢勝ちし、決勝戦もイギリス代表のキース・レムフリーに大内刈りからの抑え込みで一本勝ちして、柔道がオリンピックで正式種目になって以来、日本に無差別級で初めての金メダルをもたらした。オリンピックの男子柔道の無差別級で金メダルを獲得した日本選手は、無差別級が1988年のソウルオリンピック以降廃止された現在では、上村と山下泰裕の二人のみである。
なお、オリンピック無差別級優勝までの経緯は、明治大学での師匠であり、1964年東京オリンピック柔道無差別級銀メダリストの神永昭夫との「師弟の絆」と題されて、NHKのプロジェクトXでも紹介された。
25歳でグランドスラム(オリンピック・世界選手権・全日本選手権の3大会で優勝)を達成した上村であったが、1978年の第1回嘉納治五郎杯の決勝で山下の大内刈で敗れ武道館の天井を見上げた時、自身の勝負への執着心がなくなった事を実感し、引退を決意。
柔道界にあっては山下泰裕の壁になっていた四強時代(上村、遠藤、高木、二宮)の一人。身長174cm・体重103kgと、重量級では小柄の方であったが、センス抜群で相手の得意技を包み込んでしまうような不思議な強さを有していた。支え釣り込み足が得意技であった。
引退後は旭化成の柔道部師範や全日本チームの監督も務め、後進の指導に当たったほか、永くNHKの全日本柔道選手権放送の解説者を務めた。
2007年9月の国際柔道連盟(IJF)総会においてマリアス・ビゼール会長の指名で国際柔道連盟理事に就任。
2009年2月19日に全日本柔道連盟会長、講道館館長である嘉納行光が高齢などを理由に3月末をもって勇退する意向を表明した事により、同年4月より第5代講道館館長に就任した。
2013年1月には女子柔道強化選手による暴力告発問題を受けて、JOC強化本部長を辞任した。
3月には全日本柔道連盟が日本スポーツ振興センターからの助成金を不正受給していた問題が発覚。現場の指導者や選手からも不正の実態を裏付ける証言が相次ぎ、全柔連会長である上村の責任が問われた。上村はメディアからの取材に対し、「(不正受給した理事を)推薦した私の責任はある」と、責任の一端を認める発言をしたが、不正受給そのものが組織的に行われていた疑いが指摘されたことから、外部機関の導入などによる事実究明を求める声があがった。
4月26日には助成金の不正受給及び流用疑惑を調査していた第三者委員会が中間報告を行い、日本スポーツ振興センターから指導者に支給されていた助成金の一部を強化留保金として飲食費などに使用していた件に関して、全柔連事務局から受給者に拠出金の請求メールや、支払いが遅れた場合には督促のメールがなされていたこと、事務局の金庫に留保金の預金通帳が保管されていたことなどから全柔連による組織的関与があったと認定した。留保金は「社会通念に照らして不適切」、全柔連は組織として「公金である助成金に対する順法精神を欠いていた」とも指摘した。留保金は強化委員長時代の上村とその後を継いだ吉村和郎に管理権限があり、残高は約2350万円にも上ったが、帳簿類や領収書の管理が杜撰であったために実態を把握するのは容易ではないという。加えて、このような実態を放置していた日本スポーツ振興センターとIOCによる制度運営の不備も指摘した。 これを受けて上村は、具体的な時期こそは明らかにしなかったものの、近いうちに全柔連会長を辞任する考えがあることを示唆した。。 しかし、全日本柔道連盟の臨時理事会が行われた6月11日には、「今、一番の問題は組織の改革改善で、きちんと改革をやっていくことが使命」と話し、当面は従来通り会長を続投する考えを明らかにした。
6月21日には第三者委員会が最終報告書を公表して、2007年から指導者27名が3620万円の助成金の不正受給に関わっていたことを明らかにした。これに目的外使用の留保金3345万円も含めると計6055万円にも上ることになった。この問題に全面的に関わっていた当時の強化委員長だった吉村和郎が「最も重い責任を負う」人物と認定されるとともに、強化委員長時代からこのシステムに関与しながら是正する姿勢を示さなかった上村の責任も言及されることになった。
6月24日の全柔連臨時理事会後の記者会見で改革、改善プロジェクトのめどが立った時点で自らを含めた執行部全員が全員辞職する考えがあることを明らかにした。辞任次期としては「4、5カ月後」で、それまでは当面続投することになった。「組織の管理者として私の責任を感じ、(辞任を)きょうの朝に決断した。改革を軌道に乗せることが必要で、次の体制につなげるための準備にある程度時間がかかる。10月の理事会は大きなめどになる。これからも柔道に携わっていきたい」とも語った。全柔連会長の座は辞するとしても引き続き理事には残る可能性があるという。また、講道館は別の組織であることから、その館長職は今後も継続することになった。
7月2日に上村と前強化委員長の吉村和郎は、元衆議院議員の本村賢太郎らによって、強化助成金の不正受給及び強化留保金の不正使用で「日本スポーツ振興センターと国に損害を与えた」として、東京地検に背任罪で告発された。本村は「柔道界のイメージは最悪。根源は上村会長と吉村前強化委員長にある。柔道界だけで処理せず、法の裁きを受けてほしい。」と訴えた。一方、告発された上村は「(告発状が受理された場合)身の潔白を証明したい」と述べた。
7月23日には内閣府の公益認定等委員会が、不祥事が続出した全柔連会長の上村春樹を呼び出して、8月末までに組織の改善措置を講じて、執行部や理事会の「責任の所在を明らかにし、体制を再構築することを求めた、上村ら執行部に対する事実上の辞任勧告とも受け取れる首相の安倍晋三名義による勧告書を手渡した。これに対して上村は、「不名誉で、私の責任。心からおわび申し上げます」と述べたものの、「今すぐにはできない」「柔道を守るため、どっちが正しいか見てもらう。ダメだったら仕方ない」と、当初の予定通りあくまでも改革を推し進めた上で10月をめどに辞任する方針である意向を明らかにした。しかし、25日には8月末までの辞任を示唆すると、26日には全柔連理事で広報委員長の宇野博昌が、「内閣府の勧告を受け、今さら(辞任が)10月メドという話もないし辞めるなら理事も辞める。それが会長の真意です」と述べて、臨時評議員会が開かれる30日に上村が全柔連会長及び理事を辞職する意向であることを明らかにした。
7月30日には臨時理事会において、8月中に全柔連会長及び理事から退くことを表明した。理事会後の臨時評議員会では、即時解任案が協議されて、解任動議にかけられたものの否決された。なお、IJF指名理事も今季限りで退任するが、講道館館長は続けることになった。
8月14日には臨時理事会が開催されて、会長の上村春樹を始めとした理事23名(6月に新しく就任した6名を除く)と監事3名の計26名が、一連の不祥事の責任を取って21日付けで辞任届けを提出することになった。理事会後の記者会見で上村は、「一生懸命に改革、改善に取り組んだつもりだが、残念ながらスピード感がなかったのが一番の問題。私の判断も少し甘かった」、「日本の柔道界は世界から尊敬され認められるところであってほしい」と語った。 8月21日には全柔連会長を正式に辞職した。その後の記者会見では一連の不祥事に関して謝罪しつつも、自身の業績を列挙して、「まだまだ未熟だが、自分なりにいい仕事ができたと思う。違った角度から柔道を支えたい」と話した。なお、新会長には新日鉄住金会長兼最高経営責任者の宗岡正二が就任することになった。
2013年8月の国際柔道連盟(IJF)総会において国際柔道連盟理事からも正式に退任し日本人理事は不在となった。
2014年10月には全柔連から現会長の宗岡正二と理事会の諮問に応じる顧問の就任を要請されることになった。なお、任期は8年で無報酬の名誉職となる。一部の理事からは就任への反対意見も出されたが、会長の宗岡の見解によれば、明確な処分が行われていなければ就任を妨げるものではないという。
2014年12月3日に東京地検特捜部は、上村が元強化委員長の吉村和郎とともに詐欺容疑で告発されていた一件に関して、嫌疑不十分のため不起訴にすると発表した。両者は助成金の不正受給やその一部を上納させていた問題により告発されていたが、助成金を詐取する意図があったとまではいえないと特捜部に判断される次第となった。
2015年3月4日に全柔連は常務理事会を開き、一連の不祥事により辞任した前会長の上村春樹、前副会長の藤田弘明、佐藤宣践、前専務理事の小野沢弘史の旧執行部を含む8名が、会長や理事会からの諮問に応じる名誉職の顧問に就任したことを発表した。すでに昨年10月には要請が出されていたが、上村のみ態度を保留していたものの、今年1月になって受託した。任期は2022年3月までとなる。これで顧問は28名となった。
8月21日にIJFは世界選手権が開催されるカザフスタンのアスタナで総会を開き、全柔連副会長の山下泰裕とともに上村をIJF会長であるマリウス・ビゼールが指名する議決権を伴わない理事に登用することを決定した。任期は2年となる。両者を指名理事に加えたビゼールは、「柔道界のレジェンドだ。柔道の発展のため、日本の存在は重要。20年東京五輪で柔道の団体戦が新種目として採用されるチャンスがある。(国際オリンピック委員会などへの)ロビー活動において全柔連と講道館の力は不可欠だ」とコメントした。両者は理事会において教育や普及の分野を担当することになるという。上村は指名理事を辞任した2013年以来の理事復帰となった。2013年に日本からの理事が不在となったことで、日本の発言権や情報収集力など国際柔道界での影響力の低下を招いていたところだった。理事復帰に関して上村は、「柔道の本来あるべき姿を発信し、世界に正しい柔道を普及させていきたい」と語った。
さらには、IJFの殿堂入りを果たすことになった。
(無差別以外は全て重量級ないしは95kg超級での成績)
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