ジャイアント馬場の出身高校

ジャイアント馬場 タレント

ジャイアント馬場卒業高校
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性別
男性
生年月日
1938年1月23日生まれ
血液型
O型

ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、日本のプロレスラー、プロ野球選手、タレント。本名・旧リングネーム:馬場 正平(ばば しょうへい)。血液型O型。全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。

身長209cm、体重135kg。リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)」と命名したことに由来する。

日本プロレス界史上最大の巨体を持ち、力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネームでもあり、コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博し、現役時代はNWA世界ヘビー級王座に3度就いた。

1938年、新潟県三条市四日町に八百屋の父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。三条市立四日町小学校(入学時は四日町国民学校)に入学後、野球を始める。小学校に入学するまでは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、小学4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。三条市立第一中学校時代には中越地区大会で優勝している。

1953年、三条実業高校工業科入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた。この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。その後、特注のスパイクを与えられることとなり、念願の硬式野球部に入部。エースとしての活躍はめざましく練習試合ながらも18奪三振を記録するなどし、1954年、高校2年の時には新潟日報で「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選で敢え無く敗退し甲子園出場は叶わなかった。

この頃、バッテリーを組んでいた捕手の誘いでトンボユニオンズのプロテストを受ける話が進んでいたが、同年10月に読売ジャイアンツのスカウト源川英治に誘われ、高校を中退し、翌1955年1月にジャイアンツに投手として入団する。背番号は59。

高校2年で中退し入団という変則的な入団だったが、宮崎キャンプからのチーム参加ということもあり、チーム内での確執は起きなかった。同期は森祇晶、国松彰など。

馬場自身は新潟県第1号のプロ野球選手と考えていたため、監督水原茂の「若手は二軍でスタートし、基礎作り」という方針のため、長い間二軍暮らしを余儀なくされるが、2年目となる1956年から活躍し始める。同年12勝1敗、翌1957年に13勝2敗で、2年連続二軍の最優秀投手賞を受賞。

1957年10月23日、中日戦でようやく一軍で初先発の舞台を踏むが、エース杉下茂との投げ合いとなり、5回まで無失点で抑えるものの敗戦。同試合は杉下の200勝達成試合になった。水原監督は、杉下に花を持たせるつもりで捨て試合にしたのに、馬場が好投したことを逆恨みしたという説がある。

この試合の直後、視力の急激な低下に見舞われる。診察の結果、「脳腫瘍」(下垂体腺腫により視神経圧迫)と判断され、同年12月23日に東京大学医学部附属病院で開頭手術を受けた。当時の技術では成功率が非常に低く、医者から「失明する可能性が高いので、見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は無事成功。1週間で退院し、翌月には頭に包帯を巻いたままキャンプに復帰した。

1958年には目立った活躍は見せなかったが、翌1959年には3度目となる二軍の最優秀投手賞を受賞した。しかし、馬場を評価し後ろ盾となっていた藤本英雄投手コーチが退団したこともあり、同年オフにジャイアンツから解雇された。

1960年1月、ジャイアンツから大洋ホエールズに移籍したコーチ、谷口五郎の誘いで大洋ホエールズの明石キャンプにテスト生として参加し、採用内定を受けていた(そのため、川崎に転居していた)ものの、宿舎の風呂場で転倒、身体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針を縫う外傷を受傷し、一時期、左手の第三指および第四指の関節が伸展出来ない状態が持続したため、プロ野球を断念した(尚、この症状は、自然治癒した)。

不慮の事故で野球は出来なくなってしまったものの、スポーツを続けたいという一心で、自宅アパートの近くにあったボクシングジム不二拳闘ジムでトレーニングを欠かさなかった。

1960年3月、ジャイアンツ時代に面識があった力道山に会いに日本プロレスセンターを訪ねるが、力道山はブラジル遠征中のために不在であり、この際に馬場と同じく元野球選手という経歴を持つレスラー竹下民夫からプロレス入りを薦められる。

翌4月11日、ブラジル遠征(同遠征中、力道山は猪木寛至(アントニオ猪木)をスカウトしている)から帰国した力道山に日本プロレスへの入門を直訴。力道山からヒンズースクワット100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まる。この時、月給もジャイアンツ時代にもらっていたのと同額の5万円と即決されたが、翌月から「試合をしていないのに多すぎる」と減額されたが、それでも3万円と大金だった。 修行時代に、入門が一年先輩の大木金太郎や同期の猪木と三人でヒンズースクワットを行った時は、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている。

1960年9月30日、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。なお、同日に猪木もデビュー戦を行っているが、猪木は大木金太郎に頭突きの連打をくらいフォール負けしている。デビュー直後は芳の里が苦手であり、同年は18勝7敗を記録しているが、そのうち5敗は芳の里からである。

1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)ら、強豪外国人レスラー連との試合が組まれ、いずれも勝利することは出来なかったものの、試合内容を評価した力道山により初渡米武者修行を命ぜられ、同年7月、芳の里、マンモス鈴木らとアメリカに遠征する。短期間でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し、数々のタイトルに挑戦した。アメリカ時代のリングネームは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババ、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアント。

とある試合で戦ったアート・トーマスのマネージャー、フレッド・アトキンスをグレート東郷が馬場の元に引き抜き、アメリカでの師匠とした。馬場はフレッドの元で多くを学ぶことになった。

1962年6月、シカゴにおいて、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに勝利し、一旦、NWA世界ヘビー級王者のベルトを腰に巻き、その後の連戦(5連戦が組まれていた)で防衛を果たすも、第4戦目で観客がリングに乱入する騒ぎが起こり、その日の試合全てがコミッショナー預かりになり、また、第5戦目の試合前の控室で、ビル・ミラーとカール・ゴッチが、バディ・ロジャースを急襲して外傷を負わせたため、第5戦目は行われず、結局、この時は正式にNWA世界ヘビー級王者として記録されなかった。

1963年2月にはロサンゼルスにて、WWA世界ヘビー級王者ザ・デストロイヤーに勝利したものの、反則勝ちであったため、規定によりタイトルは移動しなかった。

この遠征時代、馬場は飲み屋へ出かけるとジュークボックスの中に唯一入っていた日本の楽曲、坂本九の『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』を流していたという。後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。

第五回ワールドリーグ戦出場の外人レスラー招聘の交渉を主目的に渡米していた力道山とともに、1963年3月に凱旋帰国。この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。馬場は、これまでの日本人レスラーにはみられなかったスケールの大きいアメリカンプロレスのスタイルで、キラー・コワルスキーやパット・オコーナーなど当時の超一流外国人レスラーと名勝負を演じ、また、師匠力道山との師弟タッグ等で活躍、初めて正式出場したワールドリーグ戦でも好成績を残すなど、初渡米武者修行の成果をファン、マスコミに強烈にアピールし、人気を博した。

同年10月に再びアメリカに遠征。同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。その際、マネージャーだったグレート東郷から、「力道山死後の日本プロレスは先行きが怪しい、高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。それ以外にも、アメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになった時のことを考えて断ったという理由もあった。

翌1964年には、アメリカで、NWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦したが、世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、当時の馬場のレスラーとしての実力がいかに卓越していたかを示す証明である。これは、その後、アメリカマット界の伝説となり、馬場の世界的名声の基盤を形成した。

同年4月に凱旋帰国し、翌月には豊登とのタッグで第11代アジアタッグ王座を獲得、力道山亡き後の日本プロレスを馬場・豊登の二枚看板で支えることになった。

1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、日本プロレスのエースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した(初代ルー・テーズ、二代目力道山、三代目馬場)。尚、この時、ベルトそのものは新調され、力道山が所有していたベルトは、後の「全日本プロ・レスリング株式会社(全日本プロレス)」旗揚げ時に馬場に寄贈されるまで、力道山家により保管された。ブルーザー相手に、1-1のドローながら初防衛も果たし、名実ともに日本プロレスのエースとなる。翌月に、代表取締役を務めていた豊登が放漫経営の責任を取り辞任し、日本プロレスから去る。

1966年2月、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターナショナル・ヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。以後、馬場は、当時の世界の超一流強豪レスラーを相手に次々に防衛を果たし、力道山のインターナショナル・ヘビー級王座連続防衛記録も更新、日本プロレスのエースとして君臨し続け、馬場のレスラーとしての全盛期の栄光とこのインターナショナル・ヘビー級王座は不可分のものとして認識されることとなる。また、ワールドリーグ戦においても、通算6回の優勝を果たして力道山の記録を更新している。馬場とともに日本プロレス黄金期を支えた猪木は、両者の実力の比較がファン、マスコミの間で取り沙汰されることが顕著となった1971年、ワールドリーグ戦の決勝戦中(馬場とアブドーラ・ザ・ブッチャーで争われ、馬場が勝利して通算5回目の優勝を果たし、力道山の記録に並んだ)、インターナショナル・ヘビー級王座への挑戦を表明したが、結果的に、時期尚早として却下された。

1966年、ハワイで、豊登による猪木略奪事件(馬場がいる限り日本プロレスのエースにはなれないと口説いた)が起こり、猪木は東京プロレスに引き抜かれるものの、短期で東京プロレスが内部分裂を起こしたため、猪木は翌1967年5月に日本プロレスに復帰。復帰の際には「猪木は豊登に騙された」からと寛大な措置が取られた。同月からアントニオ猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月にインターナショナル・タッグ王座を獲得した際にBI砲という呼称が定着した。BI砲は、当時、プロレス史上最強タッグの一つと称えられ、圧倒的な強さ、勝率を誇り、インターナショナル・タッグ王者チームとして日本プロレス黄金期の看板タッグとなった(インタータッグ王座のタイトルマッチで、BI砲が敗れたのは、ウイルバー・スナイダー&ダニー・ホッジ、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの3チームのみ)。BI砲は、ザ・ファンクスとのインタータッグ戦を最後に、後述する「プロレス夢のオールスター戦」を除いては、二度と復活することはなかったが、マット界の伝説タッグチームとして、その後も、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディやロード・ウォリアーズとの実力の比較が言及される等、しばしば話題に上り、BI砲復活を望むファンの思いは根強かった。その他のタッグとしては吉村道明や大木金太郎との名コンビ、坂口征二と組んだ東京タワーズなど。

日本プロレス時代、日本テレビ実況アナウンサーの清水一郎は、1970年頃までは馬場を巨人軍に在籍していたためか、「ジャイアンツ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。

1971年、日本プロレスの経営方針やレスラーの扱いなどに不満を覚えていた猪木と当時の後援会長が独自に改革案を製作し、馬場も含め多くの選手が賛同し、これを幹部に突きつけ、経営陣の刷新を図ろうとしていた。同年11月30日、流れに疑問を感じていた馬場が上田馬之助を捕まえて問いただしたところ、経営陣の刷新後は馬場も追い出す計画もある事を知り、馬場が経営陣にその旨を伝えた。猪木の行動は経営乗っ取りを狙ったクーデターとみなされ、12月13日に猪木は日本プロレスを除名されることになった。

このクーデター未遂は長年上田馬之助による密告事件とも言われており、きっかけは上田という証言も数多く存在するが、1996年に馬場自身が全日本プロレス監修の「馬場伝説」内できっかけは自分だということを証言している。しかし、その後も上田説は根強く、上田は晩年にもスポーツ新聞の連載で釈明を行っている。

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