Charの出身高校
Char ミュージシャン
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- 性別
- 男性
Char(チャー、1955年6月16日 - )は、日本のミュージシャン。ギタリスト、シンガーソングライター、音楽プロデューサーである。本名は、竹中 尚人(たけなか ひさと)。東京都品川区戸越出身。
耳鼻咽喉科・眼科の開業医を母に持つ。7歳(1962年)でピアノを習いはじめ、兄の影響から8歳(1963年)でギターを手にする。ピアノは、本人曰く、18歳まで継続し、音楽大学に行きたかった為、とのこと。ザ・ベンチャーズや、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミ・ヘンドリックスなどから影響を受ける。日々、ピアノよりもギターに没頭するのを心配した父親が、Charの部屋に入って「お前は将来何になりたいんだ」と問い詰めたところ、Charは「これ」と、壁に貼ってあるジミ・ヘンドリックスのポスターを指差した。
11歳~13歳(1966年~1968年)『FOX』結成。ヤードバーズ、ドアーズ、ローリング・ストーンズ等をレパートリーとしていた。 14歳~(1969年)『JAH(ヤッハ)』結成。3人のバンドで、メンバーの名前の頭文字から命名。 ヤードバーズ、クリーム等をレパートリーとしバンド・コンテスト等にも出場。 この時、早くもプロ・デビューの話を持ちかけられるが、『生ギターでフォークみたいのやらない?』と言う条件に断る。
16歳(1971年)『GAS MASK』結成。ヤマハ・ライトミュージックコンテストに出場しオリジナル曲を演奏。地区ブロックで2位を受賞する。オリジナル曲以外は、グランド・ファンク・レイルロード等をレパートリーとしていた。
1971年(中学3年生~高校1年生)に、スタジオミュージシャンとしての初仕事をこなす。 レコーディング内容は、ギター奏法教材「ロック完全マスター」という譜面集と併売されるカセットテープのデモ演奏として、エリック・クラプトンなどの曲を収める為だった。 当時のスタジオミュージシャンはジャズ系スタイルの人が多く、ロック系ギタリストは少数だった為、練習していたスタジオで知り合ったスタジオ・ミュージシャンからの依頼だったそうである。 その時のエピソードとして、その当時の録音エンジニア達は~ロック・エレキギターの『歪み』『フィードバック奏法』を認識しておらず、戸惑ったと自身が回想している。
17歳(1972年)『Shock』結成。 別バンド『Bad Scene』のデビュー曲のレコーディングにも依頼され、並行して同バンドにも参加。 『Shock』でもプロ・デビューの話が出たが、レコーディング中にメンバーの音楽的指向性の食い違いから途中で解散してしまう。
1973年、スモーキー・メディスンを結成。
『Shock』『Bad Scene』にて日比谷野外音楽堂でライブをしていた頃、金子マリも別のバンドで同じステージに立っていた。 ある日、街中で出会い連絡先を交換。 『Bad Scene』も解散してしまい、『Bad Scene』のベーシスト鳴瀬喜博、『Shock』の佐藤準・藤井章司と共に新たなバンドの構想中、金子マリから『バックコーラスでもいいから参加したい』との電話を受けて迎え入れた。同年8月には合歓の郷で合宿をし本格的な活動準備に入る。
Charは、当時エレックレコード所属アーティストのレコーディングにも参加していた為、知り合いのディレクターから依頼を受け、バンドは企画アルバムのレコーディングもされていた(『ゴーゴー大パーティー第4回ロック・インパルス』:キング・レコード/1974年リリース盤に『マイティ・マウス』の変名でクレジットされている)。同時期、エレックレコードの若手レコーディングエンジニアから『どうしてもバンドの音を残したい』と依頼され、夜中にスタジオに入り、朝方にデモ・テープは完成。後日、そのテープを金子、鳴瀬の2人が各音楽関係会社に持ち込む。当時、鳴瀬喜博以外は高校生だったが、その圧倒的な演奏力やステージングがプロミュージシャンや音楽メディアの間でも話題となり、内田裕也の耳にも入る。当時、Char本人がチケットを購入して見に行く予定だった、とも言われていた内田裕也プロデュース・イベント第2回「フラッシュ・コンサート」(於:渋谷西武劇場)に於いてサディスティック・ミカ・バンドが出演予定だった、が同バンドは海外公演決定の為キャンセル。その空いた時間にスモーキー・メディスンは抜擢された。1974年5月号のニュー・ミュージック・マガジン誌では、アマチュア・バンドにも関わらず「期待の新グループ、スモーキー・メディスン」として数ページに渡り写真と内田裕也のコメントを掲載。共にその演奏力、新鮮さを好評価されていた。
以降は様々なロックイベントに出演し、日本で野外での大規模ロック・イベントとして有名な郡山ワンステップフェスティバル1974にも出演が決まっていたが、直前に解散してしまう。(解散理由は音楽的指向性の他にも諸説有り)
解散後Charはフォーク系グループのレコーディングやLIVEでのバックバンド・ギタリスト、楽器メーカー主催のギター・クリニック等の活動が主となるが『Mad Brothers』(jazz/fusion系)、『Charlie Funk Party』(パーティ・バンド)でも活動。
1976年6月『NAVY BLUE』でソロ・デビュー、9月にアルバム『Char』を発表(代表曲『Smoky』収録)。 1977年6月にリリースされた『気絶するほど悩ましい』は、外部の作詞(阿久悠)、作曲(梅垣達志)で自身のROCK指向とは異なる『歌謡ROCK』路線となりアイドル系ギタリストとして人気を博す。 1978年には『逆光線』『闘牛士』とヒットを飛ばし、同時期に登場した世良公則&ツイスト、原田真二の3人(グループ)と共に『ロック御三家』と呼ばれる。
他の二組が自作曲で世に出たのとは違い、自身のシングル曲が職業作家からの提供曲だったことについては「俺がやったのは歌謡曲とロックの中間だよね。俺はロックの音楽家だけど、シングル盤は歌謡曲でいいと思ったわけよ。ロックやっててメジャーの世界に出るにはそれしかなかったじゃん」と当時のインタビューで述べている。またアイドル性を狙ってグループのメンバーをルックスのいいハーフで固めるなど、戦略的に若い女性ファンの取り込みを図った。
この曲のヒットでテレビの歌番組に出演することが増え、そこで当時一世を風靡したピンク・レディーの想像を絶する忙しさと、五木ひろしや新沼謙治といった演歌歌手と共演することで、歌謡界の本物のプロの凄さを目の当たりにし、自分の道を極めなければいけない思ったと述懐している。
1978年7月に発表された自身3枚目のアルバム『Thrill』にてGodiegoと共に楽曲の半分にて共演。 リリース後に行われたGodiegoとの共演LIVEで、男性のみが入場可能だった『男だけのコンサート』を行う。
同年9月、音楽活動以外に俳優にも挑戦。TBSの時代劇特番『雲を翔びこせ(渋沢栄一伝)』にて主人公の渋沢栄一(西田敏行)の嫁、千代(池上季実子)の兄、長七朗役を演じる。
同時期、本人の本来の指向とは異なるアイドル然とした歌謡界での活動に見切りを付け、新たに本格的なROCKバンド結成を構想。 Yellow~金子マリ&バックスバニーのジョニー吉長、ゴールデン・カップス~スピード・グルー&シンキ等のルイズルイス加部と共に「JOHNNY, LOUIS & CHAR」を結成し活動準備の為、合歓の郷で合宿。
その後のステージ・デビュー(芸術祭イベント)の模様はTV収録されたが、その放映前、自身に「ある事件」の謂れのない嫌疑がかけられた為、活動休止を余儀なくされ、オンエアーされることなく御蔵入りとなってしまう。 同時期に予定されていたTour「JOHNNY, LOUIS & CHAR・ウルトラコンサート」も中止となってしまった。
1979年カルメンマキの支援を受け、彼女のツアーメンバーとして復帰。
同年に「JOHNNY, LOUIS & CHAR」が再始動。 7月14日に開催された『Free Spirit』と題されたフリー(無料)コンサートには雨天にも関わらず全国からファンが殺到し日比谷野外音楽堂の動員記録を樹立する。 (当日の模様は同年11月、3万枚限定盤LPとして『Free Spirit』のタイトルでリリースされた)
1980年5月『Trycycle』、1981年『OiRA』を発表。
所属レコード会社の移籍に伴いバンド名を「ピンククラウド」(PINK CLOUD)と改名。 1981年5月『KUTKLOUD』、9月『CLOUD LAND/桃源郷』、1983年11月『PINK CLOUD』、1984年11月『PLANT BLEND』を発表。 レコード会社との契約に『バンドとしてのアルバム4枚、各メンバーのソロ・アルバムを出す』と言う条件が有り、この時期は精力的な活動期間でもあった。 この間には東京・銀座に『Smoky Studio』を設立。 ジョニー吉長のソロアルバム『LOVE CHILD』がこけら落としとなりCharのプロデュースによる他アーティストのアルバムも数多生まれた。
1985年、「ピンククラウド」は2度目のレコード会社を移籍。7月、日比谷野外音楽堂で、観客を入れずに収録されたミニ・アルバムを発表。この頃、単身渡英し半年を過ごす。その為、PINK CLOUDとしてのバンド活動は年間でも数回となる。
1986年3月 忌野清志郎とアニメのサウンドトラックとして『忌野清志郎、JOHNNY, LOUIS & CHAR』名義で『S.F』を発表。同年は『忌野清志郎、JOHNNY, LOUIS & CHAR』でのLIVEを学園祭や野外イベントで行なった。
1988年~1997年 電話通販専門のインディーズレコードレーベル「江戸屋Record」を運営。 1988年6月 ソロ・アルバム『PSYCHE』を発表。6月7日には『JOHNNY, LOUIS & CHAR』名義で汐留PITにて久々のLIVEを行う。 (会場では『PSYCHE』が先行発売され、9月にはLIVEの模様を収録した『1988,6,7 JOHNNY, LOUIS & CHAR』のタイトルでビデオも発表)以後、『PINK CLOUD』としての活動と並行し新たなユニットでの活動も始める。
1991年にはイベントがきっかけで組まれた石田長生とのアコースティック・デュオ「BAHO」(馬呆)名義で『TREMENDOUS』を発表。以降も不定期ではあるが、現在も活動中である。
1992年4月 - 「PSYCHEDELIX」を発表。 これは『PSYCHE』1988年にソロLIVEを行う際に佐藤準、アンルイス、ジム・コウプリー、ジャズ・ロッホリー、と組まれた『Char&PSYCHEDELIX』が元となったバンドである。フル・アルバムとしては3枚を発表。
1994年、PINK CLOUD/JOHNNY, LOUIS & CHARが解散。
1995年、PSYCHEDELIXの3枚目フル・アルバム『Stand』の製作途中に、ベースのジャズ・ロッホリーが方向性の違い等から脱退。PSYCHEDELIXはCharとジムのユニットとなり、ベースパートの収録は途中からcharが演奏している。
1996年、PSYCHEDELIXとしてミニ・アルバム『Smoky』を発表。
1998年、Char自身もレコード会社を移籍。2007年まで在籍しアルバム9作品(内、ベスト盤2枚、REMIX盤1枚も含む)をリリースした。
2010年、ネット販売専門の新レーベルZiccaを立ち上げ、自身のルーツをアレンジし収録したTRADROCKシリーズとして『Eric』、『Jeff』、『The B』、『The V』、『Jimmy』、『Jimi』、『Char By Char』を発表した。
それまで行ったりライブをした事の無い地方都市会場を主に不定期ではあるが『TRADROCK By Char』ツアーで各所を廻っている。また、現在イベントのみで活動するユニットで奥田民生、山崎まさよしとの『3人の侍』(Samurai‐3)がある。2011年のRSRでは斉藤和義も加わり、『4人の侍』として登場した。
本人も石井竜也と共演した際に度々「まだギャラ貰ってないぞ」と発言している。 :この件については2008年06月03日に放送されたTV音楽番組『THE M』にて”浪漫飛行 制作秘話”的な再現VTRが流され、 ~メロディーが浮かんだ石井はCharに曲を聴いてもらうため、自宅を訪問。 石井:「米米には合わないかな?」 Char:「今の米米にはこういう曲も必要なんじゃないの?」 そして歌メロの ~WOW WOW~は Charアイディアだった~とも語られた。石井は後からココに歌詞をつけるつもりだったが、 「そのまんまでいいや。」とそのままにした~とも語られていた。
1991年には2人で覆面ユニット『P-SMOKE』としてminiアルバムを発表。(サントリーウイスキー『SMOKY』のCM曲として収録曲『ホワット・アー・ユー・アップ・トゥ・ネクスト』が使われた)1996年には石井竜也が監督を勤めた映画『ACRI』に合わせた同名ユニットACRIも結成しフル・アルバム『ACRI』を発表。米米CLUB再結成のきっかけになったのが自身の誕生日パーティーだったこともあり、現在も石井竜也のコンサートなどにも客演するなどしている。
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