高橋源一郎の出身高校
高橋源一郎 作家
- 高橋源一郎卒業高校
- 灘高校 偏差値 兵庫県高校偏差値ランキング
- 作家ランキング
- 7位 / 702人中 作家別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1951年1月1日生まれ
高橋 源一郎(たかはし げんいちろう、1951年1月1日 - )は、日本の小説家、文学者、文芸評論家。明治学院大学教授。出身は広島県尾道市。日本テレビ放送番組審議会委員。
古今東西の名作からマンガ・テレビといったマスカルチャーまでを引用し、パロディやパスティーシュを駆使するシニカルな手法と相反する抒情的な作風である。日本を代表するアヴァン・ポップ文学の担い手として注目される。競馬評論家としても活動している。
4度の離婚歴と5度の結婚歴がある。子どもは5人。1人目の妻との間にもうけた長女はフリーライターの橋本麻里(1972年誕生)。2人目の妻との間に長男(1973年誕生)がいる。3人目の妻(1985~1999)は谷川直子。室井佑月と不倫関係になって離婚。4人目の妻(1999~2001)となる室井佑月との間には男児(2000年誕生)をもうけたが、すぐに離婚。2015年現在、5人目の妻(2003~)との間には男児2人(2004年、2006年誕生)がいる。
広島県尾道市の母の実家に生まれる。1歳まで大阪の帝塚山の父の実家にておもに祖母の手で育てられた。軍人の家系で、親戚の一人に甘粕正彦がいる。実家は尾道駅近くで自転車屋を営んでおり、新藤兼人が店員として働いていたことがあるという。尾道市立土堂小学校在学時に自転車屋が廃業。また父の経営していた鉄工所が倒産。1959年、東京の大泉学園に移り住む。練馬区立大泉東小学校に入学するも、尾道に戻り土堂小学校に転校しなおす。1960年、東京の千歳船橋に移り住む。世田谷区立船橋小学校に転校。1963年4月、麻布中学校に入学。1964年1月、灘中学校に転入。このころ鮎川信夫、谷川雁、鈴木志郎康等の現代詩を読み、感銘を受ける。同級生の竹信悦夫から多大な影響を受けた。1966年4月、灘高校に入学。高校時代より無党派のデモに参加。
1969年、東京大学を受験する予定だったが、東大入試の中止により京都大学を受験して失敗、二期校である横浜国立大学経済学部に入学した。しかし大学紛争中のストライキでほとんど授業が行われず、活動家として街頭デモなどに参加する日々を送る。同年11月、学生運動に加わって凶器準備集合罪で逮捕される。1970年2月、起訴され8月まで東京拘置所で過ごす。その体験が原因で一種の失語症となり、書くことや読むことが思うようにいかなくなる。
1972年夏、土木作業のアルバイトを始め、鉄工所や化学工場、土建会社などを10年ほど転々とした。この頃に競馬に興味を持つようになる。1977年3月、横浜国立大学を除籍。
1979年1月8日放送の「松山千春のオールナイトニッポン」(ゲスト:中島みゆき、さだまさし)に触発され、翌日(あるいは同日)原稿用紙を買いに行き、すぐに小説を書き始める。半年かけて書いたその小説は600枚におよび、『夏の最後の砦』というタイトルで群像新人長編小説賞に応募するも落選した。「書きたいことを書いても駄目だ」ということに気づき、同性愛者を登場人物とした小説を書いてすばる文学賞に応募するもこれも落選。
1980年、『すばらしい日本の戦争』を第24回群像新人文学賞に応募。翌年1981年、最終候補作3編のうちの1作に選ばれるが落選(受賞作は笙野頼子の「極楽」)。『群像』6月号に掲載された選評では、瀬戸内寂聴を除く全選考委員から酷評される。このときに担当した編集者に勧められて長編小説の執筆を開始し、『さようなら、ギャングたち』を第4回群像新人長編小説賞へ応募。この年、本賞受賞作はなく、優秀作に選ばれて1981年12月号に掲載され、『海燕』1982年3月号において吉本隆明から高評価を受ける。高橋の弁によれば、吉本の批評がきっかけで単行本化が決まり、1982年10月に講談社より刊行された。また蓮實重彦からも絶賛された。
1984年8月、『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』を中央公論社より刊行。1985年1月、『すばらしい日本の戦争』に手を加えた『ジョン・レノン対火星人』を角川書店より刊行した。『さようなら、ギャングたち』と合わせて3部作とした。1987年、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』を翻訳、ベストセラーとなった。1988年、『優雅で感傷的な日本野球』により第1回三島由紀夫賞を受賞。高橋、小林恭二、佐伯一麦、島田雅彦、松浦理英子、山田詠美、吉本ばなな、井口時男、中沢新一、朝吹亮二、岩森道子、高瀬千図という候補総勢12人、小説・評論・詩歌の三方にわたる大混戦となったなか、選考委員の大江健三郎と江藤淳の2票を獲得して受賞した。この時の賞金100万円は全額、日本ダービーにつぎ込み、一瞬にして使い果たした。
1990年の『惑星P-13の秘密』以降は1997年の『ゴーストバスターズ』まで小説の発表がなく、エッセイ、時評などを中心に執筆した。1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに声明を発表した。
1997年より『群像』に『日本文学盛衰史』の連載を開始し、2001年に刊行。近代文学が成立していく過程での明治期の文学者たちの苦悩を、テレフォンクラブやアダルトビデオといった現代風俗のなかに再現し、翌年伊藤整文学賞を受賞した。この作品は賛否がかまびすしく、同賞の受賞は津島佑子の強い推薦によるものである。『日本文学盛衰史』以降は『官能小説家』『君が代は千代に八千代に』『ミヤザワケンジ・グレーテスト・ヒッツ』と、それまでに比して小説の発表が増えている。2005年、明治学院大学国際学部教授に就任。
2011年4月から朝日新聞論説面に『論壇時評』を月一回連載中。掲載日は月末。
2012年、『さよならクリストファー・ロビン』により第48回谷崎潤一郎賞を受賞。現在は野間文芸賞、すばる文学賞、中原中也賞、文藝賞、萩原朔太郎賞選考委員。
小林多喜二の『蟹工船』が2008年に再脚光を浴びたのは、同年1月9日に毎日新聞東京本社版の朝刊文化面に掲載された、高橋と雨宮処凛との対談がきっかけになったといわれる。
先祖は米沢藩(山形県)の家老だったという。
競馬好きが高じて、1988年にサンケイスポーツ東京本社版の競馬面で予想コラム「こんなにはずれちゃダメかしら」を連載開始。2010年現在も連載継続中で、実に20年以上に渡る長期連載となっており、過去に書籍化されたことがある。
1990年代よりテレビの競馬関連の番組にも進出。『スポーツうるぐす』(日本テレビ)では、司会の江川卓と予想対決を繰り広げたほか、『ドリーム競馬 KOKURA』(テレビ西日本制作分)ではゲストとして度々出演。盟友だった佐藤征一アナウンサーが定年の関係もあって番組の表から遠ざかった後は、コメンテーター的司会として毎回出演するようになった。この2つの番組によって、高橋は「競馬好き作家」としてすっかり有名になった。
なお、レギュラーとして出演していた『DREAM競馬』については、2007年2月11日の放送を最後に藤城真木子ともども降板したが、それから半年後の8月12日の放送は、同年で唯一BSフジにおいて全国放送されることもあり、この日限りながら復活出演となった(降板時はTNCローカル放送だったため、TNC以外の視聴者には降板挨拶がなされなかった)。
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