高橋善正の出身高校
高橋善正 プロ野球選手
- 高橋善正卒業高校
- 高知市立高知商業高校 偏差値 高知県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 3428位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1944年5月5日生まれ
高橋 善正(たかはし よしまさ、1944年5月5日 - )は、高知県高岡郡窪川町(現:四万十町)出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。
史上12人目の完全試合達成者。
1975年から1977年までの登録名は高橋 良昌(読み同じ)。2008年より4年間、中央大学硬式野球部監督を務めた。
高知商業高校では1961年、2年生の時に、夏の甲子園に出場。後に同校野球部監督となる谷脇一夫とバッテリーを組み、1回戦で大分高田の門岡信行と投げ合い、完封勝利を飾る。しかし2回戦では相羽欣厚、江藤省三らのいた中京商と打撃戦を展開。一時は5点リードするが逆転され、山中巽、林俊彦の継投に屈し7-8で惜敗。谷脇以外のチームメートに、後に巨人入りする岩郷泰博がいる。翌1962年の夏も県予選を勝ち抜き南四国大会決勝に進出するが、徳島商の日崎勝に完封を喫し、甲子園出場を逸する。
中央大学に進み、東都大学野球リーグでは在学中に2回優勝を経験。2年生の1964年秋季リーグでは、当時のリーグ新記録である8連勝を達成、8勝0敗の成績で優勝に貢献し、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれた。3年生の1965年秋季リーグでも、リーグ新記録のシーズン9勝をマークし最優秀投手、ベストナインに選ばれたが、芝池博明を擁する専大に優勝を阻まれる。リーグ通算63試合に登板し、サイドハンドからのくせ球を武器に35勝15敗、188奪三振、防御率1.61という記録を残した。通算35勝はリーグ歴代4位。大学同期に高畠導宏がいる。
1966年の第2次ドラフト会議で東映フライヤーズに1位指名され入団。ルーキーイヤーの1967年にプロ初登板を完封勝利で飾るなど15勝を挙げ新人王に選出された。翌年も先発として活躍するが、1969年から勝星が減り低迷。しかし1971年には復活して7勝、同年8月21日には対西鉄ライオンズ戦でプロ野球史上12人目の完全試合を達成している。「西鉄ライオンズは黒い霧事件で主力選手が退団して弱体化していたからできた」と冷静にコメント。翌年も10勝をあげた。オールスターゲームにも1968年と1972年の2度出場。
1973年に小坂敏彦、渡辺秀武との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍、同年は1勝に終わる。1974年4月15日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)で、2安打1失点(奪三振9、与四死球2)で1973年5月9日以来の完投勝利を挙げ、これが川上哲治の監督通算1000勝目となった。1974年10月14日に行われた長嶋茂雄現役引退試合では先発し、他のV9メンバーと共にスコアボードにその名を連ねた。その後は主として中継ぎに転向し、1975年には小川邦和と並びチーム1位の53試合に登板。1977年には日本シリーズに初登板する。同年限りで現役引退。
引退後は巨人の二軍投手コーチ(1978年 - 1979年, 1981年 - 1983年)、一軍投手コーチ(1980年)を歴任。長嶋茂雄、藤田元司の2人の監督を支え、角盈男・定岡正二・槙原寛己を育てた。テレビ東京「スポーツTODAYプロ野球速報」初代解説者(1984年 - 1985年)を経て、1986年は中日で一軍投手コーチを務めた。その後は中日のスカウト(1987年)を挟んで、古巣・日本ハム一軍投手コーチ(1988年 - 1989年)、大洋一軍投手コーチ(1990年 - 1992年)を歴任。中日時代には宮下昌己・米村明、日本ハム時代には松浦宏明・武田一浩、大洋時代には盛田幸妃・田辺学・有働克也・島田直也を育てた。また、新人時代の佐々木主浩をリリーフに転向させた。
NHK-BS「メジャーリーグ中継」の解説者(1993年 - 1996年)を経て、1997年から1998年には社会人野球・シダックスの投手コーチを務め、チームを都市対抗野球大会へと導いた。その後は日刊ゲンダイ専属の評論家を経て、2007年から母校の中央大学硬式野球部投手コーチに就任。翌2008年シーズンからは同大学の監督となり、1シーズン目で6季ぶりの1部昇格を成し遂げた。2011年秋には最下位となり入替戦に回ったが1部に残留した。翌年1月限りで監督を退任。教え子には澤村拓一・美馬学・鍵谷陽平らがいる。
退任後、日刊ゲンダイで再び評論家を務めている。
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