飯田 幸夫(いいだ ゆきお、1947年4月9日 - )は、神奈川県横浜市中区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
横浜高校では1964年、2年生の時に23本塁打を記録。同年夏の甲子園県予選では、準々決勝で武相高に敗退。翌1965年夏の甲子園県予選でも準々決勝で鶴見工に敗れ、甲子園には出場できなかった。しかしこの予選で.545の好打率をあげたシュアな打者として、各球団に注目される。高校通算打率は・476を記録、高校同期にエースの岸勝之がいた。
1965年のドラフト会議で近鉄バファローズに4位指名され入団。高卒ルーキーながら開幕戦でいきなり1番遊撃手でスタメン出場。1969年までは主に控えの野手として代打や守備での登場が多かった。1970年は二塁手のレギュラーポジションを獲得し、7番打者として活躍。同年は初の規定打席(23位、打率.237)に達する。
1971年オフに一枝修平との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。中日では代打の切り札として活躍し、1974年のチームのリーグ優勝に貢献した。1974年9月3日の広島戦では代打満塁サヨナラ本塁打を打っている。
1978年オフに横浜大洋ホエールズへ移籍し、翌年に引退。引退後は中日で1982年から1988年まで二軍打撃コーチ、1993年から1994年まで1軍コーチ。
1982年4月24日、中日の主砲宇野勝が大洋戦(横浜スタジアム)でユニフォームを忘れたため、背番号77を付けていた飯田コーチから借りて試合に出場した(宇野の背番号は7)。相手チームの野次の中、宇野はその試合で本塁打を放つ。因みに宇野は2003年オフ、打撃コーチとして中日に復帰し、再び背番号77を付けた。
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