東国原英夫の出身高校

東国原英夫 タレント

東国原英夫卒業高校
都城泉ヶ丘高校 偏差値 宮崎県高校偏差値ランキング
タレントランキング
962位 / 2233人中 タレント別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1957年9月16日生まれ

東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお、1957年9月16日 - )は、日本の政治家、タレント。元衆議院議員(1期)。第17代宮崎県知事。

かつてお笑い芸人であり、ビートたけし率いる芸人集団・たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子。俳優、作家としての活動歴がある。タレント時代は「そのまんま東」(そのまんま ひがし)や「東英夫」(ひがし ひでお)という芸名で活動していた。

宮崎県都城市出身。専修大学経済学部経済学科卒業、早稲田大学第二文学部社会人間系専修卒業、早稲田大学政治経済学部政治学科中退。

1980年、フジテレビ『笑ってる場合ですよ!』のお笑いオーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て、1981年1月に付き人となる。現在までに数多くいるたけしの弟子の第1号である。デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。

その後、相方の芸能界引退に伴いコンビは解散。京都産業大学の学生だった丸山昭範と3か月だけという約束で、たけしのコンビ名「ツービート」の「ツー」をもらった「ツーツーレロレロ」というコンビを結成。3か月後、芸能界を辞める丸山に、たけしに黙って失踪したという事にしてもらい、東国原は当時テレビ局でADをしていた大森うたえもん(当時の芸名は大森クンタ)とコンビを組み「ツーツーレロレロ」を続ける。人気漫才師ビートたけしの弟子と言うことで注目され、関東の有名大学をコキおろすネタを主にやっていた。1983年にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消。

1983年末、たけしと東国原以下たけしの弟子たち(たけし軍団)の宴会が開かれ、その席で弟子全員の新しい芸名をたけしが命名した。しかし、東国原は新しい芸名が与えられなかったため、たけしに「殿、私の名前はどうなるのでしょうか?」と聞いたところ「東はもう、“そのまんま”、“東”でいいよ」と返答された。これはもちろん「お前は従来の芸名『東英夫』を名乗り続けろ」という意味である。しかし、書記係のラッシャー板前がたけしの言葉の意を勘違いしてしまい、「東英夫」ではなく「そのまんま東」とメモしてしまった。最終的に半ばシャレで、東国原は「『そのまんま東』という芸名を与えられた」ということにしてしまった。北野オフィス所属の漫才コンビ浅草キッドの水道橋博士によると、事務所所属芸人で表立った活動をしている団員に対して東は素っ気無い態度で、軍団内でどうにも使えない半端な底辺の芸人の面倒を良く見ていたという。

加賀まり子の頭に自分の局部をのせて「ちょんまげ」と言い放ったことがあるエピソードが、2003年の夏に放送された『壮絶バトル花の芸能界』でせんだみつおに暴露される。加賀はまったく怒らずに呆れ顔で「はい、はい」といいながら頭から下ろした。

政治家になる以前から辛口コメンテーターとして発言していた。TBS『ここがヘンだよ日本人』でレギュラーになった時は鋭い発言が多く、

一方で過激な発言も少なくないため、たけしからのツッコミや外国人出演者からのブーイングをよく浴びていた。また、引退した山口百恵(現三浦百恵)への全く周りの許可を得ていないプライベート映像を某番組が特ダネとして放送した際、他のコメンテーターはプライバシーの問題について放送した番組を擁護する発言を行ったが、東のみが「これはいくらなんでもやりすぎである」と番組を強く批判した。夫の三浦友和はエッセイの中で「擁護する発言をした人たちを忘れはしない。またそのまんま東さんの発言も忘れないし発言に感謝している」と記している。

テレビ番組『ズバリ言うわよ』のコーナー「運命のカルテ」のゲスト出演した際、細木数子から「今の仕事は合わない。小説家になったほうが良い」と言われた。

愛弟子に芸人早川伸吾がいる。なお早川はたけしの初孫弟子でもある。

日本テレビのお笑いバラエティ番組『ビートたけしの全日本お笑い研究所』(1988年4月 - 1988年9月)で ニュースキャスター 「東国原英夫」として出演していた(出演者クレジットは「そのまんま東」)。

上岡龍太郎に誘われ、石田純一らとマラソンに打ち込んだ時期があり、それが現在にも生かされている。

不祥事で芸能活動を自粛していた1987年に書いた推理小説『ビートたけし殺人事件』がベストセラーになり、翌1988年にはTBSでドラマ化され、東国原自身もたけし軍団の面々と共に出演。後に結婚することになるかとうかず子もヒロイン役で出演していた。

かとうかず子との離婚後に「前々から政治家になりたいと思っていた」と言っていたことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見せるなど、タレント時代から政界への進出を考えていたという。謹慎中に入学した早稲田大学第二文学部社会人間系専修では、卒業論文のテーマとして選挙活動を扱ったほか、卒業後も早稲田大学政治経済学部政治学科に再入学して地方自治を専攻している。同学部入試において出題された小論文の「入学後に学んだことをどのように社会に還元するか?」との課題に対して、「地方自治を学び、それを実践する」という主旨の論述を明確に展開しており、この頃までに地方自治への進出志向が確固たるものとなっていた。

2006年には本人を代表とする政治研究会「そのまんま会」を設立、同12月4日には故郷宮崎県の県選挙管理委員会に政治団体としての届け出を行い、地元での事務所開きにおいて、支援者を前に自らの出馬にかける思いを語った際には過去の不祥事についても自ら切り出し語った。その数日後には所属していたオフィス北野を退社。官製談合事件で当時の現職知事安藤忠恕が逮捕されたことに伴う宮崎県知事選挙へ無所属で立候補。当初は過去の問題行動や言動などのイメージもあって出馬を疑問視する声や東国原を泡沫候補とする声もあった。

東国原は、選挙活動において、タレント候補にありがちなタレントの選挙応援を一切受けないことで、「脱タレント」を印象付ける選挙活動を展開した。遊説や立会演説では宮崎弁を使い、早稲田大学出身をアピールし、選挙活動最終日にはマラソンをしながら活動した。宮崎再建・宮崎自立のための具体策を打ち出したそのまんまマニフェストや無所属であることの「しがらみのなさ」を強調しての県政批判などは、政治に無関心な無党派層の関心を呼び起こしただけではなく、現状に不満を持つ政党支持層へも支持を拡大していくこととなった。

東国原をサポートする政務秘書には元たけし軍団の吉川敏夫が就任。早川伸吾と共に、多忙な東国原の生活面を助けている。

こうして、「しがらみのなさ」や「宮崎を変える」という期待感が県民に好印象を与えたことに加え、保守陣営の分裂という追い風も幸いして、得票のうち約45%を得て当選した。各マスコミによる出口調査では無党派層だけでなく各政党支持層からも一定の票を獲得したことが伺える。小学校の卒業文集に「夢は政治家とお笑い芸人」と書いていたが、その夢を2つとも叶えることとなった。

早稲田受験にあたって、政治家への転身の希望までは告げぬまま、ビートたけしに相談を持ちかけたところ、「どんな政権になっても生き延びるのが芸人であり、社会の問題をただすのは芸人ではない。政治家として活動するのであれば、たけし軍団を脱退し、師弟関係を一度解消すること。」と、政治家への転身の希望を見透かしていたビートたけしから条件付きで承諾を得た[7]。このため、選挙活動は芸名の「そのまんま東」で行ったが、県知事に就任してからは本名の東国原英夫(ひがしこくばる ひでお)で活動している。一方、返上された「そのまんま東」の芸名は、2007年3月にたけしの付き人であるゾマホン・ルフィンが襲名した(2代目)。

作業服で初登庁したり、「椅子をパイプ椅子に変える」「こんな立派な机もいらない」「退職金は出来高払い。議会がいらないと言えばいらない」などの言動が地元では好意的に受け止められている。知事専用の公用車について、当初は「廃止する」と述べていたが、燃費や他の手段を使った場合のコストなどの問題を考え、車種をトヨタの「センチュリー」から、ハイブリッドカーである「クラウンセダン」へ乗り換え、これにより年60万円の公費削減となった。似たような理由で知事公舎にも住んでいない(置き換えられたセンチュリーは競売に掛けられ、255万円で落札(譲渡)された。また副知事車両、出納長車両も同様に競売に掛けられ落札された)。

報道番組やワイドショーに連日報道されたり多くの特集が組まれるようになったとともに、積極的にマスメディアに出演して宮崎県の宣伝を行っており、自らを「宮崎県のセールスマン」と称した。バラエティー番組への出演も多かったことから、「テレビに出演しすぎだ」「知事になってもタレントのつもりでいる」などの批判が一部からも挙がっていたものの[8]、本人は宮崎県の全国に対する効果的なPR活動として重点を置いた。就任後のテレビ番組出演はすべて宮崎県のPR目的であるため、スケジュール、時間的にどうしても不可能な場合を除き、極力出演依頼を断らないようにしていた。また出演料もタレント時代では考えられないような低い条件でも出演を断ることはほぼなかったとのことである。仕事によっては、ほぼノーギャラで交通費など雑費のオファー側負担だけでもテレビ番組やイベントに出演することもあったようだ。

2007年1月23日の知事就任直前に清武町で、そして直後には日向市、新富町で鳥インフルエンザが発生した。この状況に素早く対処すべく、1月29日には中央省庁を訪れ、国からの財政支援などを要請した。また、県内の民放局で流す、県内産の鶏肉や鶏卵の安全性を訴えるCMに自ら出演したり、宮崎県の巨人軍キャンプとソフトバンクの練習場を訪れ、宮崎県産地鶏などを贈呈するなど、風評被害対策のため、鶏肉の安全性を盛んにアピールしている。これらの努力の甲斐もあり、宮崎の地鶏の消費量は、発生前より4割も増加した(その他にも県内特産品のPRも積極的に行っている)。ソフトバンクのキャンプでは監督の王貞治と会って、「王監督の手は神のようだ」と言っていた。

2007年2月15日、「オール野党」とも評される県議会で所信表明演説を行った。その様子はMRT(宮崎放送)で午前9時55分から生中継(所信表明演説の中継は県議会史上初)され、普段は埋まることのない60の傍聴席を求めて93人の市民が訪れるなど、異例づくめの所信表明演説となった。その際に発した「宮崎をどげんかせんと(どうにかしないと)いかん」というフレーズは幾度となくマスコミに取り上げられ、注目を集めた。この言葉は流行語大賞にも選ばれた。なお、実際には「どげんかせんないかん」が正しく、本人もそう発声している。地元都城では、「どげんかせんといかん」と発声することはまずない。また、「どげんか」と発声するのは実際には鹿児島地方で、都城は旧薩摩藩領だったため同様に言うのであって、宮崎市などは「どんげか」と発声する。こういったことが間違った形で広まり、流行語大賞も間違った形でノミネート・受賞に至っている。

2003年に4億9600万円の公費を費やして建設された知事公舎を批判し、選挙前から住んでいるマンションに知事に当選後も住んでいたが、当選後は自宅マンションや近隣住民への悪戯が多く迷惑を掛けているとの理由で勤務先の県庁に歩いて行ける近場のマンションをローンで購入し、2007年3月29日から住んでいる。

知事選で争った、自民党推薦の持永哲志を副知事に迎えるという人事構想を抱く。自民党会派が勢力を占める県議会とのパイプ役や中央省庁とのパイプ役を模索していると報道されるが、「脱・官僚」を期待して東国原に投票した県民の反発を招き、起用を断念した。副知事には総務省出身で宮崎県に出向中の河野俊嗣(現・宮崎県知事)を起用した。

東国原英夫の関連人物

タレント偏差値ランキング 職業から有名人の出身卒業高校を探す

タレント偏差値ランキング

県別高校偏差値

関東

北関東

関西

北海道/東北

甲信越

東海/北陸

中国

四国

九州・沖縄

おすすめコンテンツ

全国高校偏差値ランキング
職業から有名人の出身高校を探す
有名人の名前から高校を探す

全国自治体別高校偏差値ランキング