別所毅彦の出身高校
別所毅彦 プロ野球選手
- 別所毅彦卒業高校
- 岐阜商業高校 偏差値 岐阜県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 2239位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1922年10月1日生まれ
別所 毅彦(べっしょ たけひこ、1922年10月1日 - 1999年6月24日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手(投手)・プロ野球監督、野球解説者。旧名「昭(あきら)」。右投げ右打ち。愛称は「べーやん」「鬼軍曹」。第二次世界大戦が激化する1941年、滝川中学校・高等学校 滝川中学校のエースとして選抜高等学校野球大会 春の甲子園に出場。青田昇(のち読売ジャイアンツ)と別所を擁した滝川中は優勝候補であった。しかし、準々決勝の岐阜県立岐阜商業高等学校 岐阜商業戦の九回表、青田昇の三塁ゴロを岐阜商の三塁手が悪送球し、一塁ランナーだった別所がホームに突っ込んだが、本塁上のクロスプレーで左肘を骨折。別所は左腕を三角巾で吊って延長12回裏途中まで投げ続けたが、痛みが限界に達し降板。チームは延長14回にサヨナラ負けを喫した。この別所の力投に、翌日の大阪毎日新聞神戸版は「泣くな別所 センバツの花だ」との賛辞を贈った。これは後々まで別所の代名詞ともなった。1942年に福岡ソフトバンクホークス 南海に入団。2年目の1943年、5月26日の大和戦でノーヒットノーランを達成(四死球2)。また、5月30日の大和戦では1安打完封勝利を収めたが、惜しくも2試合連続ノーヒットノーランは逃した。この年、14勝をあげて南海のエースに成長した。
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