中山俊丈の出身高校

中山俊丈 プロ野球選手

中山俊丈卒業高校
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性別
男性
生年月日
1935年12月14日生まれ

中山 俊丈(なかやま としたけ、1935年12月14日 - )は、中日ドラゴンズに所属したプロ野球選手(投手)。愛知県名古屋市昭和区出身。引退後はコーチを3期務めたほか、台湾球界で監督を務めた。

中京商業高校では、同期の加藤克巳(巨人)とバッテリーを組み、エースとして甲子園に4回出場。1953年の春の選抜では、1回戦で「瀬戸内少年野球団」で知られる洲本高に敗退。洲本高はこの大会に優勝。同年夏の選手権では準決勝まで進むが、この大会準優勝の土佐高に敗れる。翌年の春の選抜は、1回戦で坂崎一彦らのいた浪商に敗退。夏の甲子園では順調に勝ち進み、決勝で松浦三千男、興津達男を投打の柱とする静岡商と対戦。松浦との投げ合いを3-0で制し優勝を飾る。

1955年、中日に入団。左の本格派投手として主に先発として活躍した。1956年・1957年には2年連続で20勝を挙げている。しかしその後は故障もあり一時低迷。フォームをサイドスローに変えて復活し1963年に9勝、1964年には対巨人戦でノーヒットノーランを達成している。こうした経緯から「巨人キラー」と呼ばれていたという。

1956年5月31日の中日球場での対巨人戦の8回、川上哲治に日本プロ野球初の2000本安打を打たれた(ショートとレフトの間に落ちるテキサスヒット)。

また、改名が多く、入団から1961年までは「俊丈」、1962年から1968年までは「義朗」、1985年からは「稔丈」を名乗っていた。

1965年に現役引退。その後は1968年までコーチを務めた。以降、1971年から1978年、1984年から1989年の2度コーチ就任の時期を経て、1999年には台湾プロ野球の兄弟エレファンツ監督も務めた。

一時期、東海ラジオとCBCで野球解説者を務めていた。2005年には中京大学の野球部コーチに就任している。

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