上杉隆の出身高校
上杉隆 ジャーナリスト
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- 56位 / 60人中 ジャーナリスト別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1968年〈昭和43年〉5月3日生まれ
上杉 隆(うえすぎ たかし、1968年〈昭和43年〉5月3日 - )は、株式会社NO BORDER代表取締役。公益社団法人自由報道協会副代表。 日本ゴルフ改革会議事務局長。
福岡県生まれ、東京都新宿区育ち。
東京都立広尾高等学校卒業後、1年浪人し、2年留年して都留文科大学文学部英文科卒業。大学在学中、富士屋ホテル(山中湖ホテル)で4年7ヶ月、住み込みで働く 。
上杉の著書『結果を求めない生き方』(P.29 - 31)によれば、大学卒業予定の1991年にNHKの就職試験に落ちたため、わざと留年して翌1992年5月に内々定を得た。同年、「10月1日の正式内定を待って、研修扱いとして一足早く渋谷のNHK放送センターで働くことになった」が、「大学のミス」で取得済みの単位が未登録となり、「文部省からの天下り役人」である大学の事務局長が「自分達のミスを隠すために」再び留年になってしまったという。そのため内定保留のまま勤務し、1994年に大学を卒業したとするが、その後も正式採用されず、2年1か月間NHKで勤務したとしている。なお、平沢勝栄からの名誉毀損訴訟(後述)で、NHK「記者見習い」という勤務実態が東京地裁に認定されたとしている 。
ゴルフが趣味であり、『ゴルフダイジェスト』などのゴルフ専門誌にも寄稿している。『ゴルフが本業、政治はときどき、を目指してます』と、ゴルフジャーナリストを自称することもある。大学時代には学内でゴルフサークルを設立、代表を務めた。
記者クラブに属する日本の大手マスメディアによる談合や横並び・画一報道に対して問題を提起している。記者クラブ問題と並び、官房機密費問題に対しても切り込む。著書「ジャーナリズム崩壊」の中では「情報源を明示しない悪癖を許してきた結果が日本のジャーナリズムを貶めている」「他人のものを盗まないのは当然」などと指摘をしている。また、日本のメディアは画一的な情報しか流さないと主張し、記者クラブの存在を糾弾しており、「多様な価値観」を座右の銘としている。
日本ではマスコミ自体、 またジャーナリスト自身が自己検証・自己批判を行わないことも問題視している(欧米では訂正欄が確立していて自己検証を行う)。また、日本では客観的報道と謳いながら特定政党を支持するような報道が行われることも批判しており、客観的報道など不可能だから米国の新聞のようにどの政党を支持するか表明して報道すべきだとしている。一方では、「政治権力との距離感を忘れた派閥記者」などと特定政党を支持するような記者を批判しており、記者も国民の一人なので特定の政治家や政党を支持するのは自由であるが、それを報道に持ち込んではならないともしている。
小学生時代は、新宿区内で軟式少年野球チームでサードを守り、キャプテンを務めていた。小学校6年生当時の夢は「野球選手」だったが、卒業アルバムに記すのに皆と同じでは面白くないと思い、兼高かおる世界の旅を観て世界を旅する職業に憧れ、「ジャーナリスト」と書いたという。しかし、中学校入学後はサッカー選手や講談社のブルーバックスに手が伸びすばる望遠鏡やゴルファーになりたいと考えていた。また小学校時代には書道で2回の入賞歴がある。
2011年10月20日、上杉が暫定代表を務める「自由報道協会」が主催した小沢一郎元民主党代表の記者会見が行われた際に多くの質問者が出ることが見込まれたため出来るだけ多くの人に質問させる意図から「原則一人一問」というルールを設けていたが、読売新聞の恒次徹記者が、司会者の再三の注意にも関わらず複数の質問をしたところ、ルール違反したとして会見終了後、上杉は自由報道協会代表として岩上安身とともに「記者会見について司会者に従うこと」について恒次記者に暴言を交えながら詰問し、恒次記者が「回答が曖昧な場合、記者が続けて行う関連質問」として反論をしてやり取りの模様がネット上に動画で公開された。恒次記者は最終的に別の協会メンバーの「次回からルール厳守をお願いします」という言葉にうなづいて会場を後にし、自由報道協会ルールを守ることに同意した模様。読売新聞は「恒次記者の質疑応答時間は約4分30秒、その後に質問した4人の平均質疑応答時間は約5分」としている。
翌10月21日付けで、自由報道協会は代表の上杉隆名義で、読売新聞の恒次記者宛に、司会者の指示に従わなかったことを挙げて、「記者会見上のルールを無視し、進行を妨げたことは誠に遺憾」旨の抗議文を送付。
一方22日には上杉が恒次記者に対して複数回の暴言を吐いたことが同協会の健全性と信頼性を傷つけたとし、同協会幹事長及び会員に対して、代表辞任届を提出(不受理)。
読売新聞によると、読売新聞読者センターに寄せられた意見は10月26日時点で141件寄せられ、恒次記者を支持する意見もあったが殆どは恒次記者に対する批判であったとしている。
なお、上杉は2010年1月9日に「日本文化チャンネル桜」で放送された「新春討論・平成22年この国の行方」においては、「(日本の記者クラブでは)2問目の質問が出来ない。これは日本だけですけど、こんなことをやっているのは。世界中で普通ジャーナリストは権力を追及する時に、相手がごまかした場合は次の質問者もその次の質問者も、ちゃんと答えるまで追求できる訳ですよね。これは。ただ、日本だけは記者クラブの訳の分からんルールで、一人一問とかですね、助け舟を出すと。」と述べたことがある。
2012年1月27日、映画評論家の町山智浩がツィッター上で、上杉がレギュラー出演していたTBSラジオの番組「キラキラ降板の理由は、(海外で報道されていたメルトダウンの可能性を公表しなかった)東電批判をしたためでなく、震災前に上杉さんが放送で官房長官が機密費を「ネコババ」したと発言、長官の抗議に対してTBS(ラジオ)が上杉さんの意思に反して謝罪して揉めた件ですよね?」と質問した。 町山は、上杉が鳩山元首相主催勉強会にて、東京電力や電事連批判のあとに降板されられたと発言している記録、上杉が東電批判のせいで降板させられたと発言しているドイツのシュピーゲル誌のインタビューなどを挙げた。 ただ、上杉は、2011年4月の鳥賀陽弘道との対談(『報道災害 【原発編】』幻冬舎新書、2011年7月に掲載)において、「降板は、東電批判以外なら、官房機密費くらいしか考えられない」と、どちらの可能性もあることを示唆していた。 直接是正したいという上杉隆本人の希望により、2012年3月14日、『ニコ生×BLOGOS番外編』にて直接対談が実現。この放送は延べ19万人が視聴した。
2012年3月14日付の夕刊フジに「福島・郡山に人は住めない」という見だしの記事を書いた。しかし、その記事内でコメントをした人物が別人だったことが判明したため訂正が行われた。また福島市役所前の空間線量が「福島民報」や「福島民友」では0.6マイクロシーベルトになっているが同じ日の同じ場所で上杉隆が自分で計測したところ、郡山市役所前の空間線量が1.8マイクロシーベルトを超え、不正測定が行われているのではないかと報じた。
2月14日のメルマガでは郡山市役所の空間線量が1.0〜1.3マイクロシーベルトだと書いているが、3月14日の夕刊フジではそれが1.8マイクロシーベルトを超えたと書いている。
2012年10月14日、東日本大震災以降に使用してきた表現について、
のように述べてきたものを
と訂正することを発表した。
また事故当時、読売新聞を読んでいなかったことも認めている。
2007年9月5日発売の『週刊朝日』で、安倍晋三首相(当時)が「麻生太郎自民党幹事長(当時)に騙された」と発言したという記事を書いた。麻生と与謝野馨内閣官房長官(当時)が首相を退陣に追い込む「クーデター」を起こしたという説(クーデター説)について麻生、与謝野は公然と反論した。また、安倍も公式の記者会見で否定している。
2008年10月2日、自身のブログの中で、マスメディアが報道していた麻生内閣成立直後の「冒頭解散説」を、麻生首相周囲に解散の気配が無い事を理由に否定した。その後、麻生首相が臨時国会冒頭の衆院解散を決意した可能性があったが、上杉は麻生本人に解散の意向がそこまで強かったかについて、否定的な見解を示している。その後、上杉は10月16日の補正予算の成立を理由に、初めて解散の可能性が出てきたことを述べたが、麻生が実際に10月中旬以降の衆院解散を望んでいたという情報が新聞報道などで11月になって明らかにされた。
2008年10月21日発売の『週刊朝日』(2008年10月31日号)「麻生『外交』敗れたり」において、上杉は、担当記者とのオフレコ懇談会で外務省齋木昭隆アジア大洋州局長が、「いい加減な記事を書くな」と激高したこと、匿名の外務省幹部が「中曽根外相ほど無能な大臣も珍しい」と述べたことを書いた。外務省は、10月22日、「(斎木局長の)発言内容も激高したという点も、いずれも事実と異なる」、外務省幹部の大臣に関する発言も、「幹部が上杉氏の取材を受けた事実は確認されず、信憑性は疑問だ」と、朝日新聞出版に対し、記事内容についての抗議を行い、訂正を求めた。これに対し上杉は、『週刊朝日』(2008年11月7日号)において、懇談会の様子と斎木局長の発言内容、匿名の外務省幹部の発言「『無能』じゃないよ、『低能』って言ったんだよ(笑)」を記述し、反論している。その後、鈴木宗男衆議院議員より、「外務省についてのマスコミ報道に対する同省の対応ぶりに関する質問主意書」が提出され、政府は、斎木局長の発言事実はなかったとする答弁書を閣議決定している。
2008年10月28日、ジャーナリストの山岡俊介により、同年5月5日から翌6日に民主党主催のゴルフコンペに参加していたと報じられる。山岡は取材対象相手とは節度ある付き合いをするのが鉄則であり、マスコミ関係者が抵抗感もなく参加することは問題だと批判した。上杉はゴルフに参加していた事実を認めた上で、「費用は自腹で払った」と証拠を見せて説明した。また、ゴルフをプレーするだけで癒着や接待とみなすことは、ゴルフ競技への無理解だと反論をしている。
上杉は2010年2月11-13日のtwitterにおいて、これに関する一連の書き込みを行った。たとえば「自民党秘書会ゴルフコンペにて現在トップスコア、と山岡俊介氏に強くアピールしてみる。ちゃんと正しい記事を書いてください、山岡さん(怒)。」との記述があり、twitterの字数制限のため簡略な記述だが「自民党関係者ともゴルフはしており、一党派に偏っているわけではない」との意味を込めたと見られる。
その後の記述ではウィキペディアのゴルフ問題の項目にもリンクを張った上で
と主張している。
2008年12月、著書『ジャーナリズム崩壊』にて、朝日新聞の記者本多勝一と疋田桂一郎がフリージャーナリストの岩瀬達哉を名誉毀損で訴えたとして、名誉毀損で訴えたことは「言論の場での論争を放棄して、司法という権力に判定を委ねることは、反権力を標榜してきた「ジャーナリスト」にとって自殺行為」などと本多と疋田を批判した。しかし、本多が週刊金曜日12月19日号にて「『ジャーナリズム崩壊』に見るジャーナリスト崩壊」と題して、疋田が岩瀬に対する反論書を自費出版して、岩瀬がその反論書を名誉毀損として訴えたというのが事実であり、本多と疋田が訴えたとする上杉の記事は事実と違うと反論した。またこの件に対して疋田夫人から上杉隆への質問状を送ったが未だに返信がないとして質問状の内容を全文公開した。 その後、上杉隆はブログ上で謝罪を行ったことと、書籍の訂正内容を公表したが、書籍にはまったく反映されていない。
2009年2月19日発売の『週刊文春』(2009年2月26日号)に「安倍、福田……ひ弱な二世をつくる『後援会』」と題する記事で、安倍元総理を批判した。これに対して安倍事務所は、「事実無根のでっち上げの捏造記事」として週刊文春編集部を通じて上杉に公開質問状を送付した。 「週刊文春」名義で回答したが、「当回答は、未公表の著作物ですので、そのままHPで引用、公開されることはお控えください。」と記してあったと、安倍事務所は安倍のホームページで批判した。安倍事務所は、「週刊誌という媒体を使い大々的に安倍議員を誹謗中傷しておきながら抗議されると『それは密室でやりましょう』というのは虫が良すぎる」などと指摘し、HP上に上杉隆の主張を否定する証拠写真などを掲載し、上杉に再度公開質問状を3月5日付けで提出した。しかし上杉は、安倍側が設定した回答期限に従わず、2度の「回答延期のお願い」をした上で、3月22日に回答した。さらに上杉が「二千人以上収容可能な事務所を設営」と書いた記事について、上杉は回答の中で「読売新聞」から引用したと説明したが、安倍事務所は、週刊文春の記事に引用元が示されておらず、元の読売新聞の記事自体も誤りであり、さらに上杉はその記事の内容を改竄して記事をデッチあげた、と批判した。また安倍事務所は、「当初は週刊文春編集部の影に隠れ、今度は文春の顧問弁護士に任せるという卑劣な手段に出た」「上杉隆氏のデタラメさがはっきりし、これは大変と弁護士に依頼されたのだと思います」と批判している。これらに対し上杉は、「安倍晋三氏のHPの質問についての当ブログでの対応は、これから誠実に行なう予定だ」と述べ、「安倍氏からの数回にわたる通知書については、「週刊文春」編集部を通じて、正式に回答を出している」、「「逃げている」という安倍氏の筆者に対する批判は当たらない」とし、「強く抗議する」と自身のブログで主張している。ただし、安倍と並べて抗議の対象となった阿比留は「彼から抗議や撤回要求の申し入れは来ていない」としている。
安倍事務所は2009年7月3日にホームページで、上杉のブログでの発言「責任ある回答は、必ず、届ける」を引用し、上杉から何の回答もなく嘘つきだと批判した[49]。これに対し、上杉は2010年1月7日のTwitterにおいて、自身に寄せられた「安倍に謝罪したのか」という趣旨のコメントに答える形で「多いんです。wikipediaを鵜呑みにする方。反論せずに逃げているのは安倍元首相の方ですよ。wikiの記述が逆に書かれているだけ。ずっと放置してますけど(笑)」「過去10年間、安倍晋三氏には30回以上もの質問状やインタビュー依頼を送ったが、すべて拒否して逃げています」と発言。この「2009年の週刊文春記事への安倍側の批判」と「自身の長年の、質問・取材要請への安倍の拒否」を対比させて問題をすり替え、「逃げているのは安倍である」とする主張は、2009年3月27日付のブログ記事でもなされている。また、『たかじんのそこまでやって委員会』の動画でも、上杉は「安倍さんに対して現地で取材をしたときにこの件に対して直接反論したにもかかわらずホームページには反論を載せずに“一回も反論をせずに逃げ回っている”と嘘を書いている」(ただし上杉自身も反論を公表していない。)、「この記事で間違っていたのは壇上には上がっていたが真ん中ではなく端っこだった。これについては私の記述ミスです。それ以外の内容には間違いがない」と話している[50]。
上杉が2010年2月3日のTwitterに、東京地検特捜部から『週刊朝日』編集部に出頭要請が来たことを記載した[51]。『週刊朝日』は公式サイト「週刊朝日 談」にて出頭要請の事実を否定した[52]。その後、ジャーナリストの岩上安身がTwitterに検察の出頭要請があったことは事実であることを記載し[53]、検察が記者クラブを通じて朝日新聞本社に「圧力」を掛け、それに屈した朝日新聞本社が、『週刊朝日』に対して、出頭要請は伏せ検察から抗議文が来たことだけにしろと指示したことも記載した[54]。上杉も、2010年2月3日午前10:56に東京地検から編集長に面会の要請があったことをTwitter上で記載している[55]。
これに対し、元NHK報道局ディレクターの池田信夫は、朝日新聞東京本社のTwitterの出頭要請を否定した記載[56]などを元に、「『検察が週刊朝日に出頭要請した』とかいうガセネタがツイッターをにぎわした」、「こういう噂があとを絶たないのは、検察取材をしたことのない上杉隆氏などの素人が『検察がマスコミを自由自在に操っている』と思っているからだろう」と自身のブログにて上杉を批判した[57]。しかし後日ネット上にて上杉と討論した際、上杉から当該記述について取消しを求められ、自らの非を認めて取り消すことを約束した(しかし、2010年3月1日現在、記述は取り消されていない模様)。
『週刊朝日』は、その後、公式サイト「週刊朝日 談」に山口が経緯説明を載せ、自身が「東京地検から(事情聴取のための)出頭要請を受けた」「事実はありません」と記したが、東京地検の谷川恒太次席検事から記事に対する抗議の電話があり、谷川より「こちら(検察庁)に来ていただけますか?」と伝えられたことは明かした。この説明の中で、出張中の山口が当日出向くことが出来ない旨を伝えると、抗議書を送るとし、それが編集部に送られ、後日、山口は谷川に対して直接連絡が取れず、検察庁の広報官を通じて、「現時点でご足労いただく必要はありません。また、改めての取材には応じかねます」との返事が来たことを明かした[58]。 岩上は、検察と朝日本社に逃げ道を用意した編集長の談話であり、実際に起きたことは「出頭要請」であると記し[59]、上杉も、検察官という一捜査機関である谷川から「こちらに来ていただけますか」と連絡を受けたことは、出頭=本人自ら、ある場所、特に、役所などに出向くこと(広辞苑)であるから、紛れもなく「出頭要請」であると記している[60]。
週刊朝日2010年4月16日号にて「『赤いファイル』(公文書)廃棄疑惑・・・外務省の“暴挙”を認めたのは福田元首相だった。」という記事を書き、福田元首相が公文書廃棄の共犯であると批判した。しかし、福田元首相の事務所より「『公文書廃棄疑惑』についてはまったく知りません」「文書廃棄について了承を与えた事実はない」と抗議を受け、確認を怠り虚偽の記載をしたことを認め、週刊朝日5月26日号の巻末の編集後記の隣に謝罪文を掲載した。
『報道2001』から『新報道2001』にリニューアルされ、竹村健一の代わりに毎週出演していた。しかし2009年3月15日の放送で検事の実名を挙げて検察を批判した際、笹川堯自由民主党総務会長、弁護士の宗像紀夫から猛抗議を受け、同番組を降板させられた。
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