ジャンボ鶴田の出身高校
ジャンボ鶴田 スポーツ選手
- ジャンボ鶴田卒業高校
- 日川高校 偏差値 山梨県高校偏差値ランキング
- スポーツ選手ランキング
- 1416位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
- 生年月日
- 1951年3月25日生まれ
- 血液型
- O型
ジャンボ 鶴田(ジャンボ つるた、1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、日本のプロレスラー。本名・旧リングネーム:鶴田 友美(つるた ともみ)。三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。
ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長し、1980年代、トップレスラーとして活躍したが、B型肝炎を発症したことにより第一線を退く。その後、桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を務めるなど、教育者としても活躍した。
山梨県東山梨郡牧丘町(現山梨市)出身。山梨県立日川高等学校を経て、中央大学を卒業。血液型O型。ニックネームは「若大将」のち「怪物」「完全無欠のエース」。座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承したもの。
オリンピック出場時の選手名簿には、身長194cm、体重112kgとある。
広大なブドウ農園を営む家に生まれる。生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた。
中央大学法学部政治学科1年生の頃までは、バスケットボールの選手であった。だが、バスケットボールではプロ選手になれないことや、日本のバスケットボールの実力では、予選に勝ってオリンピックに出場することができないということで、バスケットボール部を退部したということになっている。
選手層の薄いレスリングであればオリンピックに出場しやすいと考え、大学のレスリング部に入部を申し込むが、「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」との理由で一旦は断られる。この時断った側の一人に関川哲夫(ミスター・ポーゴ)がいるが、彼の語るところによると鶴田の格闘技への思いは本物だったということで反省しているようである(ミルホンネット「ある極悪レスラーの懺悔」より)。そこで、自衛隊のレスリング道場で練習を始め、わずか1年半足らずで全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇(1971年、1972年)するほどの選手となった。大学3年次にレスリング部から逆に入部を勧められ、4年次に石井庄八、笹原正三、池田三男、渡辺長武、中田茂男ら金メダリストを輩出した名門中央大学レスリング部へ入部した。レスリング日本代表にも選ばれ、当初の目的通り1972年のミュンヘンオリンピックに出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。
レスリングでの実績により、ジャイアント馬場からプロレスにスカウトされる。プロレスに対する偏見や評価などを考え葛藤したが、1972年9月16日、父親の死をきっかけに自分自身で人生に挑戦しようと思ったことと、大学の監督・先輩・マスコミなどからのアドバイス、日本レスリング界のドン八田一朗の「プロが栄えればアマも栄える」の言葉に励まされプロ入りを決意した。
大学在籍時の1972年10月31日、全日本プロレス(以下、全日)への入団表明の際、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言。これが「プロレスに就職します」と報道される。デビュー当初は、本名・鶴田友美をリングネームに用いていた。ニックネームは「若大将」。
入団後ほどなくして、テキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとへ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも邂逅。特にハンセンとは気が合ったようで、ハンセンは鶴田を「トミー」の愛称で呼び、鶴田が日本から持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった(ハンセンはその味に感動し、鶴田に黙って勝手に食べていたという話も残っている)。ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアは鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。ハンセンは「身体は細いのに自分より何キロも重いベンチプレスを上げていた」と当時の鶴田のパワーを語っている。
1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル・タピアを相手にプロデビュー。2ヶ月後の5月20日にはニューメキシコ州アルバカーキにて、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦するという大抜擢を受ける。その後、サイクロン・ネグロやゴードン・ネルソンら実力者との対戦を経て、8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。
凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー(フォール勝ち)。3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。この抜擢については試合前に「たかが半年、150試合のアメリカ修行で一体どれだけ成長出来るというんだ。プロはそんなに甘いものじゃない」と全日内外、さらにメディアからも猛批判が上がったが、アメリカに渡り鶴田の成長ぶりをその目で確認していた馬場は「まあまあ、とにかく試合を見て判断してくれ」と自信たっぷりに答えている。 60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位につく。
20代の中頃までは若い女性の親衛隊もいたほどの人気であった。ファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。日本でも日本航空でジャンボジェット機が就航し、一般にもその名称が浸透し始めた時期であり、師匠である馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった。尚、鶴田は「投票の途中経過でジャンボ鶴田がダントツで1位だったので、もうその時点で『ジャンボ鶴田に決まりだな』と思った」そうである。
1974年3月から4月にかけて、再びアメリカ遠征に出発。太平洋岸北西部から南部、北東部、中西部まで各テリトリーを回り、3月23日にはオレゴン州ポートランドにてダッチ・サベージ、3月29日にはジョージア州アトランタにてボビー・ダンカンなど、各地のトップ選手と対戦。4月1日にはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンに登場し、ジョニー・ロッズから勝利を収めている。翌日の4月2日にはフロリダ州タンパにてダニー・ホッジ、4月4日にはノースカロライナ州グリーンズボロにてネルソン・ロイヤル、4月7日にはニューメキシコ州アルバカーキにてキラー・カール・コックスと対戦するなど、世界王者級のタイトなスケジュールをこなした。
1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破り初めてのシングルタイトルを獲得し、キム・ドクとの抗争や、国際プロレスのラッシャー木村との対抗戦、喧嘩番長ディック・スレーターをジャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝など、徐々に実績を上げていく。1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの雨中田園コロシアム決戦を含め、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間最高試合賞(ベストバウト)を受賞(他の2試合は1976年3月28日に蔵前国技館で行われたUNヘビー級選手権試合のジャンボ鶴田vsラッシャー木村戦と、1978年1月20日に北海道帯広市総合体育館で行われたNWA世界ヘビー級選手権試合のハーリー・レイスvsジャンボ鶴田戦)。
この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキック(ミサイルキック)を大一番で用いている。このころの好敵手にビル・ロビンソン、ハーリー・レイス、アブドーラ・ザ・ブッチャーらがいる。
1980年代前半は、NWA世界ヘビー級王座やAWA世界ヘビー級王座(当時世界三大王座〔NWA・AWA・WWF〕の中のふたつ)に対してあと一歩でタイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていたが、1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し「善戦マン」からの脱却を心がけた。この当時の鶴田について上田馬之助は「ジャンボはなぁ…あれだけ恵まれた体格をして、才能、瞬発力、柔軟性、運動神経を全て高い次元で持っているのに……ジャンボには何かこう、ガツーンと来るものがないんだよね。全日どころか日本マット界のエースになれる素材なのに。藤波もそうだけど、デビュー当時からの『爽やかお兄チャン』のイメージを、いまだに捨て切れてないというか。まぁ、最近はトランクスを黒に変えて、自分の中の何かを変えようと必死になっているのは分かるけどね」と語っていた。
また、この年の秋に来日していたルー・テーズに、必殺のバックドロップのコツを教えてもらっている。
1983年4月、若手レスラーの登竜門と言われたトーナメント大会ルー・テーズ杯の特別レフェリーとして再度全日に登場したテーズから、バックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップを今度は本格的なマンツーマン特訓で伝授される。このとき「今の(コーチ料)は100万ドルだな」というテーズの言葉に「世界チャンピオンになったら払います」と答えた逸話が残されている。
6月8日にはNWA王者リック・フレアーに挑戦し、三本勝負を1-0で時間切れ勝ちはするものの、「三本勝負の場合、二本勝たなければ王座の移動はしない」というルール規定により、世界奪取はならなかった。しかし、フレアーとのNWA戦では1981年の1-2での敗北や1982年のダブルフォールでの引き分け(この試合は一本勝負)に比べるともっとも善戦をした。フレアーからは30年の時を経て「日本人でベストな選手を3人挙げるとしたら、ツルタ、テンルー、ムタ」 とのコメントがある。
また、フレアーはNWA王者になる直前に、日本で鶴田から2ピンフォールを奪われ、米国でのハーリー・レイスへのタイトル戦が中止になる屈辱を受けるが、鶴田も自身の「ジャーマン・スープレックス」を対戦相手の選手生命を奪いかねない危険な技として、フレアー戦以後封印した。
米国遠征中の6月17日に長年就いていたUNヘビー級王座を返上。
7月31日にはAWA王者ニック・ボックウィンクルに挑戦をし、反則勝ちをするが、「(三本勝負の場合2本とも)ピンフォール勝ち、ノックアウト勝ちもしくはギブアップ勝ちでないと王座は移動しない」というルール規定により王座移動せず、世界奪取は失敗に終わる。過去のニックとのAWA戦(1978年三本勝負で鶴田の2-1だが3本目が反則勝ち、1980年一本勝負で鶴田の反則勝ち、1982年一本勝負で両者リングアウト、3試合ともニックの防衛)同様、のらりくらりとかわされつつ最終的にダーティなファイトで防衛されてしまう内容だった。
8月31日の蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。試合後、ロッカールームでジャイアント馬場から「よくやった、今日からお前がエースだ」と祝福され、公式に全日のエースの座を襲名する。
年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場との師弟コンビを解散、天龍との鶴龍コンビで参加するが、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。この年、インター・ヘビー級王座獲得の功績が認められ、プロレス大賞の最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「鶴藤長天」の中で初受賞。そして鶴龍コンビも最優秀タッグチーム賞を受賞した。
翌1984年、入場曲を「J」に変更。2月23日に蔵前国技館で、自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチとして、AWA王者のニック・ボックウィンクルに再び挑戦。インター王座とのダブルタイトルマッチということで、インター王座のルールも適用され、反則やリングアウトでも王座移動、レフリーの失神等でのアクシデントを防ぐため、主審にテリー・ファンク、副主審にジョー樋口を起用するという万全の態勢で、ニックのダーティーなファイトを防ぎ、「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。
AWA王座獲得後、同王座をリック・マーテルに敗れるまで、前王者ニック・ボックウィンクルをはじめ、ブラックジャック・ランザ、ビル・ロビンソン、ジム・ブランゼル、グレッグ・ガニア、ブラックジャック・マリガン、バロン・フォン・ラシクらを挑戦者に16回の防衛、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。この年、プロレス大賞のMVPを2連覇。
これらの活躍により同世代「鶴藤長天」の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされるものの、人気では維新革命の長州力や天龍の後塵を拝す。このレスラーとしての格と人気面のギャップは、「バックドロップは相手の受身の技量によって落とす角度を変えている」などという鶴田の発言に対し、ファンが「本気でやれ」「手加減するな、殺す気でやれ」という反応を見せ、さらに鶴田が「相手のレスラー生命を終わらせる、もしくは死に至らしめるのがいいレスラーだというのなら、僕は明日にでも会社(全日)に辞表を出す」と反論するなど、良くも悪くも「気は優しくて力持ち」的な鶴田のキャラクターや試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があった。
「プロレス界のキングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、後に全日に参戦した長州力、ブロディが新日本に移籍した後で対戦したアントニオ猪木らの戦いと比較される中で評価されるようになった。相手レスラーからの評価も高く、戦った選手のほとんどは鶴田の運動能力、身体的能力を絶賛している。
新日本プロレスのエースであり、1984年末から全日に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪でシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わったが、試合後はスタミナ切れのためロッカールームで全く動けなかった長州に対し、鶴田はシャワーを浴びて若手レスラーたちと大阪市内へ飲みに出かけた、といった伝説を作る。また、鶴田は、この一戦はリング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州が動き回るようにファイトすることを意識し引退後日本テレビのインタビューで「あれは僕の作戦勝ちでしょ」と語っている。これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、また、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったものだった(ただし、当時、鶴田はバックステージでジャパンプロレス勢とのマッチメイクだと聞かされると、「今日はカラータイマーだから楽だな」と話していた、という逸話もある。これは、ジャパンプロレス勢が攻めばかりで、スタミナが極端にないことを揶揄したものである)。そのため、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。一方、長州は対戦前には鶴田を「ぬるま湯に浸かっている」「アイツはレスラーじゃない、ただのサラリーマン」と散々酷評していたが、対戦後は鶴田へ一目置くようになり、マスコミに対し「ボクシングのような判定制だったら(俺の)負けだったな」「彼には勝てないよ」と語った。以後、鶴田を評価する発言を度々行うようになる。この評価は鶴田戦後長年にわたり一貫しており、2012年10月5日の長州と高田延彦とのトークショーにおいても、「鶴田先輩は本当にすごい」と、新日・全日時代のキャラクターにとらわれず、アマレス時代の先輩である鶴田に対する敬意を素直に表現している。長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間最高試合(ベストバウト)に選出されている。
鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍(のちの全日本プロレス四天王)との戦いであった。
1980年代後半以降は、一般的なプロレス技で仲野信市や天龍を失神させる、寺西勇やアニマル浜口が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発(後述)、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。
1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に龍原砲(天龍と阿修羅・原のコンビ)に王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んで、無理やり引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込みかばう原ごとピンフォールし、王座を奪回した。
1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会では敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツルタ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。
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