ジェリー藤尾の出身高校

ジェリー藤尾 タレント

ジェリー藤尾卒業高校
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タレントランキング
780位 / 2233人中 タレント別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1940年6月26日生まれ

ジェリー藤尾(ジェリーふじお、1940年6月26日 - )は、日本の歌手、俳優、タレント。本名・藤尾薫紀(ふじお しげき)。

オフィスキコ所属。代表曲は『遠くへ行きたい』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)。専修大学附属京王高等学校中退。娘は元女優の藤尾美紀、藤尾亜紀。元妻は歌手、タレントの渡辺友子。

1940年に高知県出身でNHKアナウンサーの父・藤尾薫宏とイギリス人の母・オリビア・ヒース・ゴンザレスのもと、当時の中華民国上海の日本租界で生まれる。当地で第二次世界大戦の終戦を迎え1946年に家族で日本へ引き揚げるものの、上海では家族のみならず外国人居留地においても英会話のみで生活していたため、帰国後の薫紀と母は言葉の壁や外見から差別を受ける。

特に母の心労は深刻で、知り合いのいない地での孤独を紛らわすためアルコール依存症に陥り、薫紀が中学1年生の時に、台所で吐血しウィスキー瓶を握り締めたまま28歳の若さで死亡。息絶えた母を発見したのは、学校から帰宅した薫紀だった。

その後、家庭を顧みる余裕をなくした父によって生活は崩壊。深く傷つき、新宿など夜の繁華街で荒んだ生活を送り、愚連隊「三声会」の用心棒を務めるまでになっていた。ヤクザすら道を譲るほど喧嘩に明け暮れていたが、次第に音楽への道を志すようになり1957年にバンドボーイとして出入りしていたジャズ喫茶でエルヴィス・プレスリーの『ハウンド・ドッグ』を飛び入りで歌ったところ、これが所以でマナセプロダクションからスカウトされ、芸能界入り。

1958年、高校留年が決定したのを機に中退し本格的に芸能生活を開始。「水原弘とブルーソックス」のシンガーとして日劇のウエスタンカーニバルで初舞台を踏む。特にリトル・リチャードのナンバーを得意とした。俳優としては1959年の『檻の中の野郎たち』(監督:川崎徹広、東宝)、歌手としては1961年に『悲しきインディアン』でレコードデビュー。翌1962年5月にNHKの人気番組『夢であいましょう』へ出演すると共に、同番組の「今月のうた」に採用された『遠くへ行きたい』が大ヒットして一躍人気者となり、「ダニー・ボーイ」、「土佐の一本釣り」、「指笛の丘」などのヒット曲を持つ。その後は黒澤明監督作品『用心棒』への出演など、映画・テレビを中心に幅広いエンターティナーとして活躍する。

1964年に歌手・タレントの渡辺トモコ(現・渡辺友子)と結婚し、二児をもうけた(後に長女・美紀は『極道ステーキ』、次女・亜紀は『セーラー服反逆同盟』などへ出演し、一時女優として活動した)。家族で『オールスター家族対抗歌合戦』などバラエティ番組へ出演、1974年からはトヨタ・カローラのCMへ出演して「円満な芸能人一家」として広く認知された。

しかし、1985年に入り夫婦の不仲が報じられ始め、同年末に渡辺が家を出るかたちで別居。1986年7月12日、正式に離婚した。その際、渡辺が女性週刊誌上で「酒浸りの生活でDVに及ぶ」、「妻の両親との不仲」、「経済的に困窮し、妻と収入が逆転した」など一方的にスキャンダルを吹聴し、ワイドショーがそれに同調して藤尾へのバッシングを始めたのを期にテレビへの露出が減り、表舞台から姿を消す事となった。このことに関して藤尾本人は多くを語らなかったが、離婚の際、2人の娘が父である藤尾の側に付いたことや、長女が母親の乱れた素行や男性関係を暴露、「あの人はクズ」と発言し、物議を醸したことで一方的なバッシング報道は収束する。また、2010年のインタビューでは藤尾自身が妻の不貞が原因だったことを認めている。

その後はリサイタルやディナーショー、懐メロ・オールディーズコンサート等、芸能活動を継続している。並行して慰問などの福祉活動や自らの差別体験などを通した人権に関する講演などに尽力していることでも知られる。また、娘2人が嫁いだのを機に「面倒を見てもらうつもりはない」との意思から千葉市内の有料老人ホームに生活拠点を移している。

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