オノ・ヨーコの出身高校
オノ・ヨーコ 芸術家
- オノ・ヨーコ卒業高校
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オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 - )は日本生まれのアメリカの芸術家、音楽家。ビートルズのジョン・レノンと結婚、レノンとの数々の共作でも知られている。
1953年、20歳のとき、学習院大学からアメリカのサラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なうほか、ダンス/クラブ・プレイの分野ではビルボード・チャート1位に12曲を送り込み、この分野で最も活躍しているアーティストの1人である。1981年グラミー賞にてアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞、2009年6月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。ニューヨーク在住。
ヨーコ・オノ(小野洋子)は1933年2月18日、銀行家の小野英輔、磯子夫妻の長女として東京府(現:東京都)で生まれた。小野節子は妹。小野英二郎(元日本興業銀行総裁)は父方の祖父。安田善三郎(元貴族院議員)は母方の祖父で、その実父は元宇和島藩士で実業家の伊臣忠一、その義理の父は安田財閥の創始者である安田善次郎(つまりヨーコ・オノからみて母方の義理の「曾祖父」)。義理の伯父には、医学者の小野康平や外交評論家の加瀬俊一(元国連大使)、歌舞伎役者の十三代目片岡仁左衛門、伯母にはロシア人のヴァイオリニストの小野アンナがいる。加瀬英明(外交評論家)、十五代目片岡仁左衛門および画家の石井茂雄は従弟。また、戦国時代に立花氏などに仕えた武将の小野鎮幸は先祖にあたる。
自由学園幼児生活団(幼稚園)、学習院初等科、父の転勤に伴いニューヨークに転居、帰国後、啓明学園初等学校、青南小学校に編入、学習院女子中・高等科を経て、1952年に学習院大学哲学科に入学(中退)。1953年に家族と共に父親の赴任先であるニューヨーク郊外のスカースデールに移り住み、サラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。在学中の1956年に作曲家の一柳慧と出会い、退学し結婚、前衛芸術の活動を開始する。
1959年、ニューヨークを活動拠点とする前衛芸術集団フルクサスとともに活動を行う。床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成するコンセプチュアル・アート作品『踏まれるための絵画』("Painting To Be Stepped On")は当時の代表作のひとつ。また、カーネギー・ホールで前衛音楽のパフォーマンスを行う。
1962年から1964年まで日本に帰国し、観客が彼女の衣装をはさみで切り取るパフォーマンス『カット・ピース』("Cut Piece")や、言葉によるコンセプチュアル・アート作品集『グレープフルーツ』("Grapefruit")などの作品を発表する。
1962年の11月28日に、ジャズミュージシャンで映像作家のアンソニー・コックスと結婚するが、一柳との離婚が法的に成立しておらず、1963年3月1日に無効とされ、同年6月6日に再度結婚。二人の間に1963年8月8日、娘キョーコ・チャン・コックスをもうけるが、1969年2月2日に離婚。1964年に東京からニューヨークに戻り、活動を行う。1966年、ロンドンの現代芸術協会の招きで渡英し、それを契機として活動の場をロンドンに移した。その後、アンソニーやキョーコとは没交渉になったが、ジョン・レノンの死後は親しく連絡を取りあっているという。
ジョン・レノンとの出会いは、1966年11月9日のことであった。ロンドンのインディカ・ギャラリーでのオノの個展『未完成の絵画とオブジェ』("Unfinished Paintings and Objects")の開催前日のプレビュー・ショーに訪れたレノンは、そこに展示されていた作品「天井の絵」("Ceiling Painting (YES Painting)")に惹かれた。それは部屋の中央に白い脚立が置かれており、観客はそれを昇り天井からぶら下がった虫眼鏡を使って、天井に貼られたキャンバスの小さな文字を見るという作品だった。レノンは当時を回想し「もし"No"とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも"YES"だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」と後に語っている。
1967年、レノンのサポートにより、ロンドンのリッスン・ギャラリーで、すべてのオブジェが半分の形で展示された個展『ハーフ・ア・ウィンド・ショー』("Half-A-Wind Show")を行う。二人はその後、ともに前衛的な音楽活動やパフォーマンスを行うようになり、1968年に前衛アルバム『「未完成」作品第1番:トゥー・ヴァージンズ』("Unfinished Music No.1: Two Virgins")や前衛パフォーマンス『ドングリ・イヴェント』("Acorn Event") を発表。
二人は、1969年3月20日にジブラルタルで結婚。当時、激化するベトナム戦争に反対して、平和イベント『ベッド・イン』("Bed-in")や『ウォー・イズ・オーヴァー』("War Is Over, If you want it")ポスター・キャンペーンなどの独自の「愛と平和」("Love and Peace")の活動を展開した。なお、米国では、夫婦別姓、ミドルネーム、夫婦同姓のいずれを選ぶことも可能で、オノはミドルネームにオノを入れる形式を選んだ。そのため、本名はヨーコ・オノ・レノン、となった。ただし、通称としては、以後も「オノ」を使い続けている。また、オノの二人の息子も、ミドルネームに「オノ」を入れている。
また、同年二人は自身の音楽ユニットであるプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)を結成し、1969年12月に同バンドのファースト・アルバム『平和の祈りをこめて』("Live Peace In Toronto 1969")を発表。また、1970年12月にオノ自身のファースト・アルバム『ヨーコの心』("Yoko Ono/ Plastic Ono Band")を発表。1971年3月には2枚目のアルバム『フライ』("Fly")を発表。
1970年にビートルズが解散したが、その原因は、オノにあるとし、「ビートルズを解散させた女」としてしばしば非難された。また、結婚前後の二人の活動は、奇妙な立ち居振る舞い・不人気な前衛活動と映り、数多くの非難と中傷がオノに対して浴びせられたこともあった。
1971年9月に二人は新しい活動の場を求めてロンドンからニューヨークに移り住む。アルバム『イマジン』("Imagine")の発表直前のことだった。
同年10月にニューヨークのエバーソン美術館でオノの芸術活動を集大成した個展『ジス・イズ・ノット・ヒアー』("This Is Not Here")を行なう。一方、二人はニューヨークの前衛芸術家、反戦運動家、黒人解放運動家、女性解放運動家などと交流を深め、急進的な政治運動に傾斜していった。
1971年から1972年にかけて、二人は反戦文化人の即時保釈を求める集会や北アイルランド紛争に抗議するデモ行進への参加、刑務所で起きた暴動の被害者救済コンサートや知的障害を持つ子どもの救済コンサートなどに積極的に出演する。
1973年4月、二人は架空の理想国家「ヌートピア」の建国宣言のイベントを行うが、掲げた理想も度重なる国外退去命令で挫折する。そのようななか、1973年10月、レノンはロサンゼルスに移り住み、二人は別居する。後に、レノンはこの期間を「失われた週末」と述懐している。この別居期間中にオノは、アルバム『無限の大宇宙』("Approximately Infinite Universe")とアルバム『空間の感触』("Feeling the Space")の2枚のフェミニスト・ロック・アルバムを発表している。また、女性解放を主張し日本語で歌唱しているシングル・レコード『女性上位万歳!』が日本で発売された。
1974年11月、レノンがニューヨークで開催されたエルトン・ジョンのコンサートに出演したことがきっかけになって、オノと再会。二人は翌年、1975年1月に再び生活を共にすることになる。同年10月9日、レノンの35歳の誕生日に二人の間の息子ショーン・タロー・オノ・レノンが誕生した。
ショーン誕生後、二人は夫婦の役割を見直し、育児と家事をレノンが担当し、家計とビジネスをオノが担当することになる。オノはこの数年間で、不動産や畜産などの投資事業を積極的に行い、ビジネスの才覚を発揮したと言われている。
1980年、ショーンが5歳になったことを契機としてレノンは音楽活動を再開し、二人は共作アルバム『ダブル・ファンタジー』("Double Fantasy")を発表する。その直後1980年12月8日、レノンは自宅、ダコタ・アパート前で、多方向から銃弾を受け死去する。銃口はオノにも向けられたが難を逃れた。
レノンの死の翌年、1981年にオノは、レノンの生前から家族ぐるみで親しくしていたインテリア・デザイナーで、古美術・骨董を扱っていたサム・ハバトイ(Sam Havadtoy)をショーンの養育係として雇いいれた。同氏と再婚したとの噂があったが、その事実はない。
1987年に芸術家アンディ・ウォーホルが死去したとき、彼女は葬式で弔辞を述べた一人だった。
2001年のアメリカ同時多発テロ後13日目に当たる2001年9月23日、オノは、ニューヨーク・タイムズの日曜版に"Imagine all the people living life in peace"という一面広告を掲載した。これを受けてアメリカ政府は、放送局にレノンの「イマジン」のオンエアの自粛を求めた。
2004年10月、住友ホール(東京・新宿)で行われた講演会(朝日カルチャーセンター主催)で観客に「アルカーイダをどう思いますか?」と訊かれて、「人のことを批判したり考えるよりも、自分の健康について考えたほうがいいです」と答えている。
なお、2009年9月よりプラスティック・オノ・バンドとして、息子のショーン・レノンやコーネリアスの小山田圭吾らと共に音楽活動を再開した。
オノはフルクサス(1960年代に発展したダダイズムに触発された前衛芸術家らの自由な集団)に距離を置きながらも関わっていた。当時親しくしていたフルクサスの創立者、ジョージ・マチューナス(George Maciunas)はオノの作品を高く評価しており、熱心にプロモートしていた。マチューナスはオノと共にフルクサス・ムーブメントを広めようと考えていたが、オノはかならずしもフルクサスをムーブメントだとは認識しておらず、また自身はどこにも属さないアーティストでありたいと考えたためにある一定の距離を置いていた。
ジョン・ケージはオノのパフォーマンス・アートに多大な影響を及ぼしたひとりである。オノとケージの関わりは、ニュー・スクールでのケージの有名な実験的作曲法の授業の生徒だった一柳慧との関係を通してのものだった。オノは、ケージと彼の生徒達の型にはまらない前衛的なネオ・ダダイズムの音楽に次第に傾倒していった。
1960年夏、オノは、自身も含めたニューヨークの前衛的芸術家達の作品を展示する場所を熱心に探し、マンハッタンのチャンバーズ・ストリート112番地に格安なロフトを見つけ、そこをスタジオ兼住居とすることにした。それは、ケージがニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(New School For Social Research)での講師を辞めた直後のことだった。一方、作曲家のラ・モンテ・ヤングはそのロフトでコンサートを企画させてほしいとオノに頼み込み、オノは不本意ながら承諾したという。やがて二人は数々のイベントをこのロフトで主催することになった。互いに自分こそが第一キュレーターだったと証言しているが、オノによると、次第に彼女はヤングの補佐的役割へと押しやられていった。このロフトでのイベントでは、キャンバスの小片を地面に置き、足跡をつけて完成する『踏まれるための絵画』に代表されるオノの初期のコンセプチュアル・アート作品も展開されていた。その観賞者は、アート作品とは壁に飾られた手の届かないものである必要はなく、地面におかれ汚れた不揃いなキャンバスのかけらで、しかも踏みつけられる事によって完成とすることもあり得るのだという、オノが提示したジレンマに直面せざるを得なかった。
当時のオノはコンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アートを追求していて、そのパフォーマンス・アート作品のひとつに、1964年、草月会館(東京)で上演された『カット・ピース』("Cut Piece")がある。この作品の説明には、一言「切れ」(Cut)という破壊的な動詞があるのみで、観客が舞台上に座っているオノの衣服を、オノが裸になるまで文字通り切るという作品である。『カット・ピース』は、作品を介して彼女の内的苦痛を伝えるという、彼女の作品にはよく見られるもののひとつである。大学で、オノはジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)の実存主義に触れ、自身の人間としての苦痛を鎮めるため、観客にアート作品を完成させるための協力を求めると同時に、自身のアイデンティティを確立させようともしていた。『カット・ピース』は、アイデンティティに対する問いかけに加え、社会的調和と愛の必要性も訴えている。また、苦痛や孤独という人としての普遍的な苦悩に言及すると同時に、ジェンダー問題や性差別にも触れている。この作品はロンドンをはじめ、様々な場所で上演され、観客が変わる度に違った反応を集めている。日本では観客は控えめで用心深く、ロンドンでは熱狂しすぎた観客が暴力的になり、オノが警備員に保護されるに至った事もある。2003年には、パリで再演されている。
オノのコンセプチュアル・アートのひとつに、『グレープフルーツ』("Grapefruit")がある。この作品は1964年に東京で刊行され、超現実的で、禅問答にも通じる命令口調の言葉が並び、読み手の創造力の中で完成するというアート作品である。一例としては、次の一節がある。「みんな家に帰るまで隠れなさい。みんなあなたのことを忘れるまで隠れなさい。みんな死ぬまで隠れなさい」。ヒューリスティクス言葉によるアートであるこの作品は数回出版されたが、1971年サイモン・アンド・シュースター版が最も広く流通し、2000年には同社によって再版されている。また、オノは、自身のパフォーマンス作品として、この作品の中から引用することも多々あり、彼女の多くの展示会もこれに基づいているものが多い。その意味で、この作品集はオノのアートの基底を形成する代表作と言える。
1966年1月、オノは、ウェズリアン大学(Wesleyan University)で行われたレクチャーの中で、彼女のコンセプチュアル・アート作品のインスピレーションについて次のように語っている。「私の音楽以外の作品はすべて、イベント的な要素を持っています。私にとってイベントとは、ハプニングのように他の分野の芸術を同化させたものではなく、さまざまな知覚からの自身の解放なのです。多くのハプニングにみられる一体感もなく、ただ自己と向き合う営みなのです。ハプニングと違って台本もありません。ただし、イベントの引き金となるものはあります。願いや希望に近いものかもしれません。心の壁を取り払い、視覚、聴覚、そして動的な知覚を捨てたあと、私たちは何を生み出すだろうか。私はそのようなことに思いを巡らしています。私のイベントは多くの場合、驚異を感じながら行なわれるのです。満足に食べることもできず、空想のメニューを弟と言い合っていた第二次世界大戦の体験にまで遡る手法です」。
また、オノは前衛的な実験映画作家でもあり、1964年から1972年の間に16本の映像作品を撮っている。1966年に製作された作品『ナンバー・4』("No.4"、通称『ボトムズ』("Bottoms"))は特に高い評価を得たフィルム作品である。この映像は歩行機上を歩く人のお尻のクローズ・アップ・ショットの連続で、スクリーンに映し出された映像は、お尻の縦の線と下部にできる横皺の線とでほぼ4分割されているように見える。サウンドトラックとして、このプロジェクトの参加者と参加希望者のインタビューが使われている。1996年、時計メーカー、スウォッチがこの作品を記念してそのお尻の映像をデザインした時計(限定版)を製造した。
ジョン・レノンはかつて彼女のことを「世界で最も有名な無名アーティスト。誰もが彼女の名前を知っているが誰も彼女のしていることを知らない」と語っている。ニューヨークのアート界でのオノの親しい仲間には、マチューナス、ヤングの他に、ケイト・ミレット(Kate Millet)、ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)、ダン・リクター(Dan Richter)、ジョナス・メカス(Jonas Mekas)、マース・カニングハム(Merce Cunningham)、ジュディス・マリナ(Judith Malina)、エリカ・アビール(Erica Abeel)、フレッド・デ・アシス(Fred DeAsis)、ペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim)、ベティ・ローリン(Betty Rollin)、荒川修作、エイドリアン・モリス(Adrian Morris)、ステファン・ウォルフェ(Stefan Wolpe)、キース・ヘリング(Keith Haring)、アンディ・ウォーホール(Andy Warhol)らがいた。
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